伝記
エミール・ザトペックは、1922年9月19日に、現在のチェコ東部にあたるコプジヴニツェで生まれた長距離走の選手である。慎ましい家庭の6番目の子で、きょうだいは7人だったとされる。幼いころから走ることに関心を示したが、靴をすぐに履きつぶすため、養蜂家の父に走ることを禁じられた。それでも父とベスキディ山地に登るなど、体を動かすことは続けた。学校を終えると16歳でズリーンの靴会社バタの工場で働き始めた。のちに本人は、幼児のころ目の前に道具を並べる慣わしで靴職人の金槌をつかんだことが、この道を選んだ縁だと語っている。
19歳のある日、工場の実業団のコーチから、ザトペックを含む4人の青年が陸上競技の試合に出るよう言い渡された。自分の体格を理由に断ったが、診察で異常なしとされて仕方なく出場し、本番ではやる気が出て、100メートル走で2位に入った。これが競技人生の出発点となった。地元のクラブに所属して、フィンランドのパーヴォ・ヌルミを手本に練習を重ね、1943年に2000メートル、3000メートル、5000メートルの当時のチェコスロバキア記録を更新した。第二次世界大戦ではチェコスロバキア軍に入ったが、練習を優先することを許され、1946年にヨーロッパ選手権の代表に選ばれて、5000メートルで14分25秒8を出し、国内記録を更新した。
1948年のロンドン・オリンピックでは10000メートルで金メダルを獲得した。1952年のヘルシンキ・オリンピックでは、5000メートル、10000メートルとともに、初めて走ったマラソンでも優勝し、長距離三冠を果たした。この記録は今後達成する選手はいないだろうと考えられている。オリンピックでは通算7個のメダルを得て、うち4個が金だった。1948年から1954年までに出た38の競走で一度も負けなかったとされ、同時に8つの世界記録を保持した唯一の男でもあった。顔をしかめ、あえぎながら走る姿から「人間機関車」と呼ばれた。短い距離の走りを繰り返すインターバルトレーニングの創始者としても知られる。のちにロン・クラークに自分の金メダルを渡し、その思いを託した。
妻のダナ・ザトペコヴァも陸上競技の選手で、ヘルシンキ・オリンピックのやり投で金メダル、1960年のローマ・オリンピックで銀メダルを獲得した。1968年のプラハの春では、自由化を求める「二千語宣言」に署名した一人となり、ソ連軍の侵攻後はウラン鉱山の掃除夫にされるなど冷遇された。1989年の民主化で名誉を回復した。
13歳のとき、1936年のベルリン・オリンピックで5000メートルと10000メートルを力走して4位に入った村社講平に感銘を受けたという。1981年4月、多摩ロードレースのため来日したザトペックは、どうしても村社と走りたいと望み、当時75歳の村社が快諾して5キロを共に走った。ザトペックは、今日は我が人生で一番幸福な日だと語った。2000年11月22日にプラハで没した。肺炎が死因とされる。全身を使った投球フォームから、日本の投手村山実の投法は「ザトペック投法」と呼ばれた。2021年には伝記映画が公開され、同年のカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で観客賞を受賞した。
同じ年に亡くなった人物
- バーデン・パウエル (2000年没)
- イーヴォ・ロビッチ (2000年没)
- 宮本輝紀 (2000年没)
- チャールズ・ホケット (2000年没)
- Gustaw Herling-Grudzinski (2000年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコライ・アンドルーソフ (1924年没)
- ミロスラフ・オンドリチェク (2015年没)
- アドルフ・ブルガー (2016年没)
- フランチシェク・ヴェセリー (2009年没)
- フランティシェク・パラツキー (1876年没)