伝記
ウワディスワフ・シュピルマンは、1911年12月5日にポーランド南部のソスノヴィエツで生まれたユダヤ系ポーランド人のピアニスト、作曲家である。幼いころからピアノを学び、フランツ・リストの弟子の流れをくむ教師に師事した。ワルシャワのショパン音楽院を経て、20歳のころにはベルリンの音楽大学でレオニード・クロイツァーやアルトゥール・シュナーベルに学び、作曲もフランツ・シュレーカーに一部学んだと言われる。1933年にヒトラーが政権を握ると2年ほどでポーランドへ帰国し、1935年にポーランド放送の専属ピアニストとなって、クラシックとジャズを演奏し、数多くの大衆音楽も作曲した。
1939年にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、アメリカが参戦すれば事態が好転すると楽観した両親、弟、妹二人とシュピルマンは、ワルシャワに残った。ドイツ軍は当初、財産の不可侵を約束するビラをまいたが、まもなく反故にされた。1940年11月からシュピルマン一家はワルシャワ・ゲットーで暮らし、彼は飲食店でピアノを弾いてわずかな日銭を稼いだ。1942年7月にトレブリンカ強制収容所への移送が始まり、8月16日、移送列車に乗ろうとした一家の列から、彼を知るユダヤ人ゲットー警察の男に突き飛ばされ、彼だけが乗車を免れた。両親、弟、妹二人はトレブリンカで亡くなったとみられる。
家族を失った彼は、蜂起に向けた武器弾薬の輸送や肉体労働に従事し、1943年2月、ゲットーでドイツ親衛隊の手入れが行われた混乱に紛れて外へ逃れた。名の知られた音楽家だったため、ポーランド放送の元同僚たちが隠れ家を提供し、各地を転々とした。支援者がみな誠実だったわけではなく、食料をなかなか届けず、救出の基金を募りながら懐に入れる地下組織の男もいて、餓死寸前まで追い込まれたこともあった。
1944年11月17日、食料を求めて隠れ家の建物の中を探していたところを、ドイツ軍将校ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉に見つかった。ホーゼンフェルトは身の安全を約束して食料を届けるようになり、差し入れのパンを包んだ新聞で、ドイツ軍の敗退を知らされた。最後に会った12月12日、撤退する大尉は多めの食料と毛布、軍のコートを残し、別れ際に彼は名を名乗って、困ったらポーランド放送を頼るよう伝えたが、大尉はついに自分の名を明かさなかった。1945年1月にワルシャワが解放されたとき、彼はそのコートのため危うく射殺されかけたが、誤解を解いて生き延びた。
戦後はポーランド放送に復職し、1946年に戦時中の体験を『ある都市の死』にまとめた。1951年、ホーゼンフェルトの妻からの手紙で、初めて大尉の名を知り、救出を要請したが、実現しなかった。1957年に大尉の自宅を訪ねると、すでに亡くなっていた。1950年に結婚し、二人の子をもうけた。世界で2000回以上の演奏を行い、映画音楽や管弦楽曲、大衆歌など数多くの作品を残し、1963年に結成されたワルシャワ・ピアノ・クインテットには初代メンバーとして加わり、75歳の1986年まで演奏した。1998年に息子が『ピアニスト』の題で増補改訂版を出し、ホーゼンフェルトの名と国籍が明記された。2000年7月6日、脳溢血で入院中のワルシャワで没した。2002年には映画『戦場のピアニスト』が公開された。
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