HISTORICAL PERSON · 2000年没

ヘディ・ラマー

オーストリア出身のハリウッド女優で発明家。第二次大戦中に作曲家アンタイルと、魚雷の無線誘導が妨害を受けにくくする周波数ホッピングの初期技術を開発し、特許を取得した。

生涯
2000年没
死亡地
アメリカ合衆国(フロリダ州 / オーランド)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(フロリダ州)

伝記

ヘディ・ラマーは、本名ヘドウィヒ・エヴァ・マリア・キースラーといい、1914年11月9日にウィーンで生まれた女優・発明家である。父エーミールはレンベルク出身のユダヤ人銀行家、母ゲルトルートはブダペストの上流のユダヤ人家庭の出身で、ピアニストであった。彼女はユダヤ教から改宗したカトリック教徒で、よく教会に通ったという。女優にあこがれ、演出家マックス・ラインハルトとともにベルリンへ行って演劇の訓練を受け、ウィーンに戻って映画のスクリプターとして映画界に入った。まもなく女優となり、17歳で端役として映画に出演した。

1933年、18歳のとき、ヘディ・キースラーの名で、グスタフ・マハティ監督のチェコ映画『春の調べ』に出演し、ヒロインの若妻を演じた。性の解放をうたったこの映画には全裸の場面があり、当時はきわめてセンセーショナルな作品として、アメリカでは上映が禁止された。同じ年の8月、19歳で裕福な兵器製造業者フリードリヒ・マンドルと結婚した。マンドルは非常に嫉妬深く、彼女の濡れ場の出演に強く反対して、映画のプリントを買い占めようとしたとされる。彼女は自伝で、夫から城に幽閉され、映画界を半ば強制的に引退させられたと書いている。マンドルはナチス・ドイツともイタリアのファシスト政権とも親密で、ムッソリーニ政権に軍需品を売ったこともある。夫に伴われて出席した商談の場で、軍事技術に携わる科学者や専門家と会ううちに、応用科学への関心を育てたといわれる。

やがてマンドルとの結婚に嫌気が差し、ナチスの影響力が強まる母国を離れることを決意して、1937年にパリへ逃れた。自伝ではメイドに変装して逃げたと書かれている。パリで映画プロデューサーのルイス・B・メイヤーに会って契約を結んだが、メイヤーは改名を求め、彼女はサイレント映画時代の女優バーバラ・ラ・マーにちなんで「ヘディ・ラマー」と名乗ることになった。メイヤーは1938年に彼女を「世界で最も美しい女性」と銘打って宣伝した。ハリウッドでの最初の出演作は、シャルル・ボワイエと共演した1938年の『カスバの恋』である。その後も、1940年の『同志X』ではクラーク・ゲーブルと、1949年の『サムソンとデリラ』ではヴィクター・マチュアと共演した。『サムソンとデリラ』は1949年の最高興行収入を記録した。しかし1951年ごろから事業は不振に入り、1958年の作品を最後に映画界を引退した。

発明家としての才能も持っていた。第二次世界大戦中には、友人の作曲家ジョージ・アンタイルの協力を得て、魚雷の無線誘導が敵の妨害を受けないよう、電波の周波数を頻繁に変える方式を考案した。ピアノロールの仕組みを参考にしたとされ、1942年8月11日に、ヘディ・キースラー・マーキーの名でアンタイルとともに特許を取得した。ただ、実装が難しく、海軍が外部の発明を受け入れにくかったこともあって、長く棚上げされ、改良された方式が軍艦に使われたのは、1962年のキューバ危機のときだった。その原理は、のちのスペクトラム拡散技術の先駆の一つとされ、現代の無線通信にも応用されている。2人は1990年代にEFFの先駆者賞を受け、彼女は2014年に全米発明家殿堂入りを果たした。

1953年にアメリカに帰化し、1981年には視力が衰えてフロリダ州のマイアミビーチに移った。2000年1月19日、フロリダ州カッセルベリーで85歳で亡くなり、遺骨は願いに従ってウィーンの森に散骨された。2014年にはウィーンの中央墓地に名誉墓が建てられた。

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