伝記
メフメト3世は、1566年5月26日、マニサで、のちのムラト3世と側室サフィエ・スルタンの子として生まれ、オスマン帝国の第13代皇帝(在位1595年-1603年)となった人物である。生まれたときの皇帝は曽祖父のスレイマン1世であったが、この年に没し、祖父セリム2世が跡を継いだ。1574年12月にセリム2世が没して父がムラト3世として即位した時、メフメトは8歳で、皇太子となった。幼少期から青年期の大半をマニサで両親と過ごし、家庭教師のイブラヒム・エフェンディらから教育を受けた。1582年には16歳で割礼を受け、遅めであったが、父はこれを空前の盛儀にしようとし、祝祭は一か月間続いた。1583年にはマニサの知事となり、その時期に自身に割礼を施したジェッラー・メフメト・パシャに家政婦として仕えていたハンダン・スルタンと親しくなり、のちに夫人とした。
1595年1月、父の崩御で即位した。即位すると、19人の兄弟を伝統に従って全員殺した。棺の列があまりに長く、人々は哀れみ、嘆き悲しんだという。このため、次に即位した子のアフメト1世は弟のムスタファ(のちのムスタファ1世)を殺さずに残し、以後、即位時の兄弟殺しは行われなくなった。父と同じく政治には関心が薄く、実務は母サフィエ・スルタンや宰相らに任せ切りで、帝国の衰退が進む治世となった。母は国政に強い影響力を持ち、大臣の任免にも関わったとされ、宰相どうしの対立にも母が一方を支持して、皇帝が問題を自ら収めるのを妨げたという。1596年のエゲル遠征の際には、母に財政を任せた。自身が戦場に赴いたのは、即位直後の一度だけとされる。
ハンガリーをめぐる長期戦争では、1596年にエゲルを占領し、皇帝率いる軍がメゼーケレシュテでハプスブルク軍を破った。以後、ハンガリーの軍司令官にはクユジュ・ムラト・パシャが任命された。1598年にジュールをハプスブルク側に奪還されたが、1600年にカニジャを占領した。1601年にセーゲシュフェヘールを奪われ、翌年に奪還したものの、ブダがハプスブルク側に包囲された。ブダの陥落は免れたが、戦いは辺境の城塞をめぐる争奪戦の様相を呈した。
その間、アナトリアやシリアでは、ジェラーリーと呼ばれる反乱者が相次いだ。財政難の中央政府に封土を没収された騎士、貧困化したマドラサの学生、土地を失った農民や遊牧民らである。1596年に始まった第一波は、下級軍人カラ・ヤズジュの反乱に合流し、彼は1600年にスルタンであると宣言した。オスマン側はハンガリー戦線に追われ、十分な兵力を割けなかった。カラ・ヤズジュは1601年にバグダードの知事ソコルルザーデ・ハサン・パシャに敗れたが、兄のデリ・ハサンが翌年にハサン・パシャを討ち、1602年にカラ・ヤズジュが死ぬと跡を継いだ。山賊の集団が各地を襲ったため、帝国の台帳にあった村までが消え、生計を失った在郷騎士がジェラーリーになる連鎖もあった。
17世紀初頭のイスタンブールでは、大宰相とイスラム長老の対立から騒擾が起き、常備騎兵軍団に皇帝の廃位を仄めかされた。疑心暗鬼に陥った皇帝は、母の讒言により、1603年に息子のシェフザーデ・マフムトとその使用人たちを処刑した。晩年にはサファヴィー朝のアッバース1世が、父の獲得した領土に侵攻してきた。1603年12月22日、暴飲暴食が原因で38歳で崩御し、子のアフメト1世が跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ピエール・シャロン (1603年没)
- アンドレア・チェザルピーノ (1603年没)
- Yemisci Hasan Pasa (1603年没)
- マールテン・デ・フォス (1603年没)
- クシシュトフ・ラジヴィウ・ピョルン (1603年没)
同じ地域に関係する人物
- ナイム・タル (1998年没)
- アフメト・ルザ (1930年没)
- Gabdennasiyr Qursawi (1812年没)
- タラール1世 (1972年没)
- レオンティオス (706年没)