伝記
フョードル2世ボリソヴィチ・ゴドゥノフは、1589年にモスクワで生まれた。ボリス・ゴドゥノフの長男で、姉に、のちに修道院に入れられるクセニヤがいる。母マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤは、イヴァン雷帝に仕えた悪名高いオプリーチニキの首領、マリュータ・スクラートフの娘であった。
彼は父の強い愛を受け、西欧志向の強い父の教育方針のもとで当時望みうる最良の教育を受けた。幼いころから統治の細かな事柄を教えられ、会議に出席し、外国の使節を迎えることもあったという。並外れて聡明で、ロシアの地図を作成したとされ、それは今も残っている。当時の文献は、彼が学識に富み、強靭な肉体を持っていたと伝える。
1605年、父ボリスが急死すると、16歳の彼はツァーリに即位した。即位の日付は4月13日とも23日ともされる。だが、父の死と同時に支持者は離反しはじめ、偽ドミトリー1世の側に回る者が相次いだ。母がマリュータ・スクラートフの娘であることも、求心力の低下に拍車をかけた。父が身辺を有力者で固めていたにもかかわらず、彼は治世の初めから裏切りの空気の中にいた。さらに、父の部下だった大貴族ヴァシーリー・シュイスキーは、フョードル1世の弟ドミトリーの死に関して前言を撤回し、偽ドミトリー1世こそ本物の皇子だと主張した。
同年6月、偽ドミトリーの軍勢が首都に迫り、11日には使者が赤の広場で書状を読み上げて、退位を求めた。同日、シュイスキーら大貴族はフョードル2世とその家族を逮捕・監禁した。その後、20日に城門が偽ドミトリーのために開かれ、首都に入った偽ドミトリーの命令で、彼は母マリヤとともに殺害された。公式には二人が毒を飲んで自殺したと発表されたが、スウェーデンの外交官ペーテル・ペトレウスは、遺体に激しく争った痕があったと述べている。四人がかりでようやく押さえ込んだともいう。一人残された姉クセニヤは、数か月間偽ドミトリーに慰み物にされたあげく、その花嫁マリナ・ムニシュフヴナがモスクワに入る直前、修道院に入れられた。
彼は若く、父のように人々をまとめる統率力を持たなかったため、あまりにも悲惨な死を遂げることになったといわれる。19世紀後半にモデスト・ムソルグスキーが作曲したオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』にも、登場人物の一人として現れる。
同じ年に亡くなった人物
- Ayse Sultan (1605年没)
- Jan Lasicki (1605年没)
- ジョン・ストウ (1605年没)
- テオドール・ド・ベーズ (1605年没)
- ストラダヌス (1605年没)
同じ地域に関係する人物
- アナスタス・ミコヤン (1978年没)
- アレクセイ・クルチョーヌイフ (1968年没)
- ヘルムート・フォン・パンヴィッツ (1947年没)
- レオニード・ガイダイ (1993年没)
- グリゴリー・ロマノフ (2008年没)