伝記
ジョルジェ・アマードは、1912年8月10日、ブラジル北東部バイーア州イタブーナ近郊フェハーダスの農園に生まれた小説家で、20世紀ブラジル文学を代表する作家である。大佐と呼ばれた農園主のジョアンと妻エウラリアの長男で、3人の弟がいた。まもなく、リオ・カショエイラ川の大水や天然痘、スペイン風邪の流行を避けるため、カカオ栽培の中心地イリェウスの町に移り、幼少期の一部をそこで過ごした。このため、彼の生まれた地をイリェウスとする人も多く、カカオを主題とする小説の舞台にもなった。
14歳のころ、サルヴァドールで本格的に文学活動に加わり、地元の文学の刷新に重要な役割を果たした若者の集団「反逆者アカデミー」の創立者の一人となった。作品は自分たちで創刊した雑誌に載せた。当時の首都リオ・デ・ジャネイロの大学法学部に入り、1935年に卒業したが、弁護士として働くことはなかった。この学校は1930年代には政治と芸術の議論の中心で、ここで組織的な共産主義運動に初めて触れ、多くの同世代の人々と同じようにジャーナリストとなって、共産主義の政治に深く関わった。在学中から『カカオ』などを書き、『砂の戦士たち』『ジュビアバー』などで作家として認められ、ブラジル共産党員の彼は、この時期にブラジルのプロレタリア文学を代表する作品を残した。
しかし、左派的な政治思想のために、エスタード・ノーヴォ体制を築いていたジェトゥリオ・ヴァルガス大統領と対立し、アルゼンチンとウルグアイへ亡命した。亡命中に、1920年代のテネンチズモの英雄で共産党の指導者ルイス・カルロス・プレステスを題材に、『革命児プレステス 希望の騎士』を書いた。ブラジルが連合国の一員として第二次世界大戦に参戦すると、党の指示でサルヴァドールに戻り、地元の新聞のコラムでファシズムを批判する一方、スターリンとソ連を称えた。1946年には、共産党から連邦下院議員に当選し、議員としては、アフリカ系の信仰やプロテスタントが迫害されるのを見て、信教の自由を保障する修正案を提出し、署名を集めて成立させた。しかし、党が非合法化されたため議員の資格を失った。
1948年から再びフランスとチェコスロバキアに亡命し、1952年に帰国した。だが、中華人民共和国などの社会主義国を訪れた経験が、社会主義国への不信を抱かせ、1956年にスターリン批判が行われる前に「自主転向」し、共産党を離れた。それでも、チリのネルーダやピカソ、アラゴンらと平和運動や執筆を続けた。1958年には『ガブリエラ、丁子と肉桂』を出し、社会問題を主に描いてきた作風が変わる転機となった。初期の社会の底辺に生きる人々をリアリズムで描く作風は、ブラジル民衆の生きざまをユーモアや風刺をまじえて描く方向へ移った。
1961年にブラジル文学アカデミーの会員となり、1977年にはノーベル文学賞の候補になった。1976年に映画化された『フロル夫人と二人の夫』は、2005年の別の作品に抜かれるまで、ブラジル映画史上最大の観客動員を記録した。作品は48以上の言語に翻訳され、1994年にはポルトガル語圏で最も権威あるカモンイス賞を受けた。作家のゼリア・ガッタイと結婚し、2人の子をもうけ、前の結婚で生まれた娘は、1949年に14歳で亡くなっている。2001年、サルヴァドールで死去し、カルドーゾ大統領をはじめ、多くの人がその死を悼んだ。
同じ年に亡くなった人物
- W・G・ゼーバルト (2001年没)
- レハバム・ゼエビ (2001年没)
- チン・コン・ソン (2001年没)
- ウラジーミル・セミチャストヌイ (2001年没)
- Jim Baxter (2001年没)
同じ地域に関係する人物
- アントニオ・ジアス・ドス・サントス (1999年没)
- カストロ・アウヴェス (1871年没)
- アイモレ・モレイラ (1998年没)
- Irma Dulce Pontes (1992年没)
- マリア・キテリア (1853年没)