伝記
ローラン=デジレ・カビラは、コンゴ民主共和国の第3代大統領(1997年5月17日から2001年1月16日)を務めた政治家である。生まれは、1939年11月27日とする説と、1999年のインタビューで本人が述べた別の日付とがあり、一定しない。ベルギー領コンゴのカタンガ州ジャドヴィル(現在のリカシ)で、ルバ族の父とルンダ族の母の間に生まれた。中等教育はエリザベトヴィル(現ルブンバシ)の学校で受けたことが確実だが、大学教育を受けた場所は、パリ、ダルエスサラームなど説が分かれ、はっきりしない。この曖昧さは本人自身が保ったものとされる。
1960年にコンゴが独立するとコンゴ動乱が起こった。カビラはパトリス・ルムンバを支持する勢力に加わり、ルバ人の政党バルバカ党の青年団でカタンガ国のチョンベ大統領と戦った。1962年までには北部カタンガの政権で情報相となり、ルムンバ主義の組織が結成されると、東部のキヴなどに組織づくりのため派遣された。1965年にはタンガニーカ湖対岸のタンザニアのキゴマから越境作戦を開始した。同年にはチェ・ゲバラが約100名の手勢を連れてコンゴに現れ、短期間カビラを支援した。だがゲバラの目には、26歳のカビラは酒と女を欲しがるだけで、前線にも不在がちな人物と映った。両者の協力は成立せず、革命はその年のうちに弾圧された。
1967年、カビラと残った支持者は南キヴ州のフィジ・バラカの山岳地帯に移って人民革命党を結成し、中華人民共和国の支援を受けて毛沢東主義に傾倒し、小さな社会主義国家を築いた。ここでは集団農場や鉱物の密輸が行われたとされる。のちには金や象牙の取引で富を得たと非難され、ダルエスサラームとカンパラに家を建てた。カンパラでは、のちのウガンダ大統領ムセベニと会っていたと伝えられ、その縁でのちのルワンダ大統領ポール・カガメとも引き合わされた。これらの接点は、第一次コンゴ戦争へのルワンダとウガンダの介入の根拠となった。1988年にこの国家は消滅し、カビラは姿を消して、広く死んだと思われていた。
第一次コンゴ戦争が始まった1996年10月、カビラはツチの軍勢を率いて戻り、ブルンジ、ウガンダ、ルワンダの支援を受けて、コンゴ・ザイール解放民主勢力連合の議長として反乱を起こした。1997年半ばまでに、数万人の市民の犠牲を出して勝利し、5月17日にルブンバシで勝利を宣言した。憲法を停止し、国名をザイールからコンゴ民主共和国へ戻して、5月20日にキンシャサへ入った。マルクス主義者だったが、政策は資本主義と集団主義の混合で、西側の一部は前任者との違いを評価した。他方で個人崇拝を準備したとして「もう一人のモブツ」とも呼ばれた。
1998年には元同盟者のウガンダとルワンダが敵対して反政府勢力を支援し、第二次コンゴ戦争が起こった。カビラは南部アフリカ開発共同体に軍事介入を求め、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラとともに戦って、南部と西部を維持した。1999年7月の和平交渉で外国軍の撤退が合意された。2001年1月16日、護衛に撃たれ、ジンバブエに移されて治療を受けたが、18日に死亡が確認された。息子のジョゼフが国葬を営み、10日後に後任の大統領となった。
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