HISTORICAL PERSON · 2001年没

ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ

ネパール王国の第10代君主。1972年から2001年まで在位し、弟ギャネンドラとともにインドの学校で学んだ。父は第9代マヘンドラ。

生涯
2001年没
死亡地
ネパール(バグマティ県 / カトマンズ)
出生地
ネパール(カトマンズ)
出典
世界地図
ネパール(バグマティ県)

伝記

ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ・デーブは1945年12月28日(29日ともいわれる)、カトマンズのナラヤンヒティ宮殿で、王太子マヘンドラと最初の妻インドラ・ラージャ・ラクシュミー・デビー王太子妃の間に生まれた。マヘンドラの長男とも次男ともいわれる。次男とする場合、マヘンドラの最初の子ラビンドラは未婚のときにグルン族の女性との間に生まれた子とされて「庶子」と見なされたため、ビレンドラが王太子になったという。弟のギャネンドラとともに、ダージリンにあるイエズス会の学校、セント・ジョゼフ・スクールに8年間通った。1955年3月13日に祖父トリブバン国王が死去して父マヘンドラが王位を継ぐと、王太子となった。

1959年にイギリスのイートン・カレッジに入学し、1964年に卒業した。この間の1960年4月には、国賓として日本を訪れた国王夫妻のスケジュールに合わせて自らも訪日し、宮中晩さん会などに出席している。卒業後はネパールに戻り、徒歩で国内各地の辺境をめぐる旅に出て、村にあるもので質素に暮らした。1967年には東京大学に留学し、親日家として知られる。留学中の彼に熱海の植物友の会が桜と梅の種を献上し、返礼としてヒマラヤザクラが贈られた。同年から翌1968年にかけてはハーバード大学でも政治学を学んだ。若いころは旅を好み、カナダ、中南米、アフリカ、インド各地やアジアの国々を訪れた。美術品の収集家で、ネパールの工芸家や芸術家を支援し、ヘリコプターの操縦も身につけた。1970年2月27日には、はとこにあたるラナ家のアイシュワリヤと結婚した。これは史上屈指の豪華なヒンドゥー教の婚礼とされ、費用は950万ドルと伝わる。

1972年1月31日、父マヘンドラ国王の崩御により26歳で即位した。服喪や占星術師が不吉とした年が重なり、戴冠式は1975年2月24日に行われた。即位時のネパールは政党が禁じられ、国王がパンチャーヤトと呼ぶ評議会の制度を通じて統治する、事実上の絶対君主制であった。1980年5月には、政党を認めないパンチャーヤト制の存続か複数政党制かを問う国民投票が行われ、僅差で存続が決まった。結果を受けて国を五つの開発地域に分け、毎年各地域を訪れて均衡のとれた発展を図った。1990年4月、民主化を求める声が高まると、パンチャーヤト制を廃止して立憲君主になることに同意した。11月9日には複数政党制と基本的人権を認める新憲法を公布し、主権在民がうたわれて、国王は「国家と国民の統合の象徴」と位置づけられた。これにより絶対君主制は終わり、ビレンドラは開明的な君主として厚い信頼を得た。1991年5月の総選挙ではネパール会議派が第1党となり、コイララが組閣したが、報道の自由が広がるなか政治家の腐敗が明らかになり、短命な内閣が相次いだ。1996年からは、共産党毛沢東派の武装闘争による内戦が始まった。

2001年6月1日、ナラヤンヒティ宮殿の晩餐会の席上で、アイシュワリヤ王妃や第二王子ニーラージャンらとともに射殺された。犯人とされるのは、長男のディペンドラ王太子である。王太子は意識不明のまま即位したが、3日後に死去し、弟のギャネンドラが王位を継いだ。

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