伝記
サー・ドナルド・ジョージ・ブラッドマンは、1908年8月27日、オーストラリアのニューサウスウェールズ州クータマンドラに生まれたクリケット選手である。ジョージとエミリーの夫妻の末の息子で、兄と三人の姉妹がいた。一家は彼が2歳半のときに、南部高原のボーラルへ移った。少年は幼いころから一人でクリケットに打ち込み、ゴルフボールと小さな木の柱を使って、独自の一人遊びを編み出した。家の裏手には、曲がったれんが造りの台に載せた貯水タンクがあり、ボールを曲面に当てると速い勢いで様々な角度に跳ね返った。それを再び打つ練習が、タイミングと反射神経を大きく鍛えたという。12歳のとき、ボーラルの公立学校のチームで初めて100点を超える得点を記録した。
1920年から21年にかけては、おじのジョージ・ワットマンが主将を務めるボーラルのチームで記録係をしていたが、選手が足りない試合に出場することになった。1922年に学校を離れ、スポーツの趣味に理解のある不動産業者のもとで働いた。2年ほどテニスに転じたのち、1925年から26年にクリケットに戻った。ボーラルのチームで地元の大会に出ると、その活躍はシドニーの日刊紙の目に留まった。のちの国際的な投手ビル・オライリーが所属するウィンゲロ戦でも高得点をあげ、モス・ヴェイルとの決勝では、5週の土曜日にわたって得点を積み上げた。1926年の夏、衰えたオーストラリア代表がイングランドにアッシズの優勝杯を奪われ、代表選手の引退が相次いだことから、ニューサウスウェールズのクリケット協会は新しい才能を探しはじめた。ブラッドマンはシドニーでの練習に招かれ、テニスとクリケットの両方の大会に選ばれたが、雇い主が休みを一週間しか認めなかったため、クリケットを選んだ。1926年から27年のシーズンにはシドニーのセント・ジョージ・クラブに加わり、毎週土曜日にボーラルから約130キロを往復して試合に出た。
翌シーズンには、負傷したアーチー・ジャクソンに代わって州代表に選ばれ、19歳でアデレード・オーバルにおいて、最上位の国内大会に初めて出場した。機敏な足さばき、自信、落ち着き、効率のよさという、のちの特徴はすでに表れていた。シーズン最後の試合では、シドニー・クリケット・グラウンドでビクトリア州を相手に初めて100点を超えた。1928年には、代表チームでテストマッチに初出場している。22歳の誕生日を前に、一部は今も破られていない世界記録を打ち立て、大恐慌のオーストラリアで国民的なスポーツの英雄となった。テストクリケットの通算打率は99.94で、20イニング以上戦った選手のうち、ほかに通算打率が61を超えた者はいない。イングランドは彼を抑えるため、物議を醸した「ボディライン」と呼ばれる戦術を編み出した。1948年には主将として、イングランド遠征を負け知らずで終え、「無敵の軍団」とあだ名された。この年に代表を引退し、のちは運営者、選考委員、著述家としてもクリケットに関わった。1987年にはボーラルに、存命の人物を記念するオーストラリア初の博物館が設立された。2000年には100人の専門家の委員会が、彼を最多得票で「20世紀最高のクリケット選手」に選んだ。2001年2月25日、南オーストラリア州のアデレードで、肺炎により亡くなった。
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