伝記
ガイ・フォークスは、1570年ごろ、イングランドのヨークに、エドワード・フォークスとその妻エディスの間の4人の子の2人目として生まれた。正確な誕生日は不明で、4月16日にヨークの教会で洗礼を受けたことから、4月13日前後と推測されている。両親は国教会の定例ミサに参加するプロテスタントであったが、8歳のときに父が亡くなり、母がカトリック教徒のベインブリッヂと再婚した。フォークスがカトリックとなったのは、義父の家が国教忌避者であったことのほか、通ったヨークのセント・ピーターズ・スクールの影響もあったと思われる。校長のプルリンは、有名な国教忌避の家の出身であった。学友には、のちに火薬陰謀事件に加わるジョン・ライトとその弟クリストファーらがいた。卒業後は子爵に仕えたが不興を買って解雇され、その後別の主人に再仕官した。
1585年に英西戦争が始まると、レスター伯率いるオランダ遠征軍に加わるため、アイルランドで部隊を編成していた指揮官スタンリーの傘下に入った。スタンリーはカトリック教徒で、エリザベス女王からも評価された50代半ばのベテランであったが、1587年にデーフェンテルが陥落するとそのまま部隊ごとスペインに寝返り、フォークスもこれに従った。以降はスペイン側の軍人として、独立を図るオランダと戦い、1595年から1598年のヴェルヴァンの和約まではフランスとの八年戦争にも参加した。当初は下士官のアルフェレスであったが、活躍して1603年には大尉に推薦された。また、1603年にはスペイン使節団に加わり、イングランド国内のカトリックの反乱への支援を求めてスペインへ向かい、このころ名をグイドと改めたとされる。しかしフェリペ3世に支援するつもりはなかった。
1603年にジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒は寛容政策を期待したが、1604年2月にはカトリック司祭の国外退去命令が出され、国教忌避者への罰金の徴収も再開されて、失望に変わった。過激派のロバート・ケイツビーは、議会の開会式で議場を大量の火薬で爆破し、国王や政府要人をまとめて暗殺する計画を立てた。参加を決めたトマス・ウィンターは大陸で支援を求めたが、スペインの支援は望めないと知り、代わりに有力な協力者として紹介されたのがフォークスであった。長年イングランドを離れていたフォークスは無名の存在であったが、好戦的で意気投合し、1604年4月にイングランドへ戻った。
5月20日にロンドンの宿屋で最初の会合が開かれ、ケイツビー、ウィンター、ライト、トマス・パーシー、フォークスの5人が祈祷書に秘密の誓いを立てた。軍人としての経歴と人柄から信頼を得たフォークスは、計画の要である火薬の管理を任され、パーシーの使用人「ジョン・ジョンソン」として、政府中枢近くの建物に潜り込んだ。しかし陰謀を密告する匿名の手紙に基づき、当局は決行日の前日にあたる1605年11月4日の深夜にウェストミンスター宮殿を捜索し、貴族院の地下室で大量の火薬とそれを管理していたフォークスを発見した。
フォークスは数日間の尋問や拷問に、単独犯だと主張して仲間の名を明かさなかったが、11月7日には本名を明かした。1606年1月27日の裁判では無罪を主張したが、大逆罪での刑を宣告され、31日の処刑の際には、自ら足場から飛び降りて首の骨を折り、自殺したとされる。その名は火薬陰謀事件の代名詞となり、11月5日はガイ・フォークス・ナイトと呼ばれる。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン6世 (ナッサウ=ディレンブルク伯) (1606年没)
- シャガラザード・ユスフ・シナン・パシャ (1606年没)
- ハインリヒ・ビュンティンク (1606年没)
- ガスパール・デ・スニガ・イ・アセベード (1606年没)
- ジャナンドレア・ドーリア (1606年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョージ・ベラス・グリノー (1855年没)
- ハリー・スミス (1860年没)
- ゲオルク・エーレット (1770年没)
- ジョン・リリー (1606年没)
- シェルイ・ティボール (1978年没)