伝記
ペギー・リーは、1920年5月26日にノースダコタ州ジェームズタウンで生まれたアメリカの歌手、ソングライター、女優である。本名はノーマ・デロリス・エグストローム。ミッドランド大陸鉄道の駅員だった父と母の大家族に生まれ、一家は鉄道沿いの町をいくつか移り住んだ。4歳のとき母が亡くなり、父が再婚すると、継母は彼女に非常につらく当たったという。慰めとなったのはラジオから流れる音楽だった。1936年にバレーシティのラジオ局で初めて職業として歌い、のちに地元のレストランがスポンサーとなる自分の番組を持ったが、報酬は料理だった。高校時代もその後も、ウェイトレスをしたり、ラジオ局で少額の報酬で歌ったりと、目についた仕事は何でもした。1937年10月、ファーゴのラジオ局の人気パーソナリティ、ケン・ケネディのオーディションを受け、その日のうちに放送に出たが、その前に「ペギー・リー」と名を改められた。
継母の虐待に耐えかねた彼女は、1938年3月、17歳で家を出てロサンゼルスに向かった。最初の仕事は避暑地の食堂での調理とウェイトレスで、その後は遊園地の呼び込みもした。のちにパーム・スプリングズの店で歌っていた1940年、騒がしい客に声の大きさではなく繊細さで対抗しようと考え、彼女の特徴となるハスキーな囁くような歌い方を身につけた。シカゴのホテルのナイトクラブで歌う機会を得て、そこでベニー・グッドマンの目に留まり、1941年8月に楽団に加入して2年間務めた。この時期は同楽団の最も名の知られた時期ともいわれる。
1942年に全米チャートで初のトップ10ヒット「誰かが邪魔した」を出し、翌1943年の「ワイ・ドント・ユー・ドゥ・ライト」は100万枚以上を売り上げ、その名を広く知らしめた。同年3月に楽団のギタリスト、デイヴ・バーバーと結婚して楽団を離れ、娘ニキの養育に専念したが、1944年には創設間もないキャピトル・レコードで作曲と録音に復帰した。この夫とともに作った曲に多くのヒットがあり、1948年の「マニャーナ」は100万枚以上を売って、「隠退生活」に完全に終止符を打った。同年、ペリー・コモやジョー・スタッフォードとともにNBCのラジオ音楽番組の司会者となった。
1951年にデイヴと離婚した。キャピトルとの関係はおよそ30年に及び、1952年から1956年までの短いデッカ・レコードの時期にもアルバム『ブラック・コーヒー』など、芸術的に豊かな作品を残した。「フィーバー」や、1969年にグラミー賞の最優秀女性ポップ・ボーカル賞を受けた「イズ・ザット・オール・ゼア・イズ」のカバーが最もよく知られている。ディズニー映画『わんわん物語』では曲を作り、自らも歌った。1955年の映画で酒におぼれるブルース歌手を演じ、アカデミー賞にノミネートされた。グラミー賞には12回ノミネートされ、1995年に生涯業績賞を受けた。生涯に1,100曲以上の原盤を録音し、270曲以上の作詞や作曲に関わった。日本でも1975年と1976年に公演を行っている。1990年代まで活動を続け、2002年1月21日、糖尿病と心臓発作の合併症により81歳で亡くなった。
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