伝記
ヘンリー・ハドソンは、イングランドの航海士で探検家である。北アメリカ東海岸やカナダ北東部を探検し、ハドソン湾、ハドソン海峡、ハドソン川は彼の名にちなむ。船員になる前の経歴はほとんど分かっていない。1560年代の生まれとされ、1565年、あるいは1570年ごろという説もある。ロンドンの生まれで、9月12日に生まれた可能性が指摘されているが、確かではない。16歳ごろに船員となり、船の雑用係から始めて船長にまで上りつめたと見られる。
1607年にモスクワ会社に雇われた。この会社の設立目的の一つは、シベリア沖の北極海を通ってヨーロッパと中国を結ぶ北東航路の探検であった。当時の人々は、北極圏で夏の太陽が3か月間照り続ければ氷が溶け、北極点を通ってモルッカ諸島へ直行できる海路が開くと信じており、イングランドはこの航路をめぐってオランダやスペインと先を競っていた。ハドソンは同年に北極海へ向かい、北極点の577海里南にまで達したが、夏でも融けない厚い氷に阻まれて、9月に帰国した。この航海で到達したスヴァールバル諸島は、直後から捕鯨の拠点となり、イギリスとオランダの間で激しい競争が起きた。トマス・エッジは、ハドソンがヤンマイエン島を発見したと主張したが、裏づける記録は残らず、疑わしいとされる。1608年にも北東航路に再挑戦し、ノヴァヤゼムリャの付近まで達したが、厚い氷のために引き返した。
1609年にはオランダ東インド会社に雇われ、ハルフェ・マーン号で大西洋を渡った。任務は北西航路の発見であったが、以前の航海者がみな氷に阻まれたことを知るハドソンは、ジェームズタウンにヴァージニア植民地ができたと聞き、北米中央部から太平洋へ出る水路を探すことにした。チェサピーク湾とデラウェア湾は太平洋につながらないと分かり、さらに北のニューヨーク湾に入って、ハドソン川をオールバニーの近くまでさかのぼった。この川でモヒカン族やワッピンガー族などと交易し、貝殻やビーズと引き換えに、ビーバーやカワウソの良質な毛皮を得た。オランダはこれを機に毛皮交易を始め、ニューネーデルラントが生まれ、1625年にはマンハッタンにニューアムステルダムが建設される。帰国後、ハドソンはイングランド政府に留められ、以後は母国のためだけに働くよう命じられたという。
1610年には、ヴァージニア会社などの出資で、ディスカバリー号による4度目の航海に出た。アイスランドとグリーンランドを経て、7月25日に、流れの激しさから「怒り狂う逆波」と呼ばれるハドソン海峡を通り抜けた。8月2日には、のちに自らの名を冠する巨大な湾に到達した。数か月かけて一帯を探検したが、太平洋への出口はなく、11月ごろに海が氷に閉ざされ、ジェームズ湾に上陸して越冬を余儀なくされた。食料が不足して乗組員の不満が高まり、1611年の春に氷が解けたあと、さらなる探検を望むハドソンと、帰国を求める乗組員の間に不和が生じたとみられる。6月に乗組員が反乱を起こし、ハドソンと息子ジョン、彼に従う者や病気で衰えた者は小舟に置き去りにされ、そのまま消息を絶った。没年は1611年とされるが、確かではない。反乱に加わった13人のうち8人がヨーロッパに生還して逮捕されたが、新世界探検の情報源になると判断されたためか、罪に問われず釈放された。のちに妻キャサリンが資金を出して捜索が行われたが、見つからなかった。
同じ年に亡くなった人物
- Pedro de Ribadeneira (1611年没)
- 真田昌幸 (1611年没)
- マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃) (1611年没)
- ソフィア・ヴァーサ (1611年没)
- エーカートッサロット (1611年没)
同じ地域に関係する人物
- Kenojuak Ashevak (2013年没)
- フランシス・クロージャー (1848年没)
- ジョン・フランクリン (1847年没)