HISTORICAL PERSON · 2003年没

ヘイダル・アリエフ

ソ連・アゼルバイジャンの政治家で、第3代大統領(1993〜2003年)。30年以上同国政界を主導して安定した政治を実現したが、権威主義的な強権政治で一族支配と腐敗も残した。

生涯
2003年没
死亡地
アメリカ合衆国(オハイオ州 / クリーブランド)
出生地
アゼルバイジャン共和国(ナヒチェヴァン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(オハイオ州)

伝記

ヘイダル・アリルザ=オグル・アリエフは、1923年5月10日に生まれ、2003年12月12日に没したソビエト連邦およびアゼルバイジャン共和国の政治家である。1993年6月24日から2003年10月31日まで同国の第3代大統領を務めた。ソ連の構成国だったアゼルバイジャン時代から30年以上にわたって同国の政界を主導し、大統領としても安定した政治を実現したが、権威主義的な強権政治は、アリエフ一族による社会経済の支配と腐敗政治という負の面も残した。

公式の経歴によれば、アゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァンの町に、鉄道員の父アリルザの子として生まれた。一家は生まれる前に、近くの村から移っていた。兄弟は4人、姉妹は3人いたという。ナヒチェヴァンの師範学校を出ると、アゼルバイジャン工業大学で1939年から1941年まで建築を学んだ。1948年にザリファと結婚して、娘と、のちに大統領となる息子イルハムをもうけた。第二次世界大戦中は、スメルシュの大隊を指揮したという。1944年にアゼルバイジャン国家安全保障人民委員部に入り、これは1954年の再編でKGBとなった。1960年にアゼルバイジャンのKGBの長となって少将の階級を得た。この間、アゼルバイジャンでは、ほとんど無名だったとされる。

1969年7月12日、アゼルバイジャン共産党中央委員会の第一書記に選ばれた。ブレジネフの義弟セミョーン・ツヴィグンが推したのを受け、ブレジネフが選んだとされる。以後アゼルバイジャンの政務を任され、「アゼルバイジャンの君主」とも呼ばれて、各地に利益供与の網を築いたとされる。ブレジネフには豪華な贈り物を重ねた。1982年12月、ユーリ・アンドロポフの誘いでソ連の中央政界に移り、閣僚会議第一副議長(第一副首相)となり、同時に、ムスリムとして初めてソ連共産党中央委員会の政治局員になった。しかし強硬な政治姿勢が、1985年に書記長になったゴルバチョフのペレストロイカと対立し、1987年10月に政治局を辞職して引退を余儀なくされた。

1990年に共産党を離れてナヒチェヴァンへ帰り、地元の議員に選ばれた。1991年にナヒチェヴァン自治共和国の最高議会議長に選ばれ、同年にソ連から独立を宣言したアゼルバイジャン本国の最高会議の副議長にも就いた。ナゴルノ・カラバフをめぐるアルメニアとの紛争でアゼルバイジャンの政界が混乱を極めていた1993年6月15日に最高会議議長に選ばれ、9日後の6月24日に大統領に選出された。大統領としての10年間、国家を強力に指導し、反対者を排除しつつ、外資の積極的な受け入れで、紛争(1994年に停戦合意)で壊滅状態にあった経済の立て直しを進めた。1993年10月と1998年10月の大統領選挙で圧勝して2度の任期を務めたが、選挙が公正だったかは国際社会から疑問視されている。

健康状態は1999年頃から損なわれ、この年アメリカで最初の心臓バイパス手術を受けた。2003年春にはテレビ中継された演説中に倒れ、8月に再びアメリカへ送られて治療を受けた。10月3日、治療中のアメリカで声明を出し、8月に首相となっていた長男イルハムを後継者と宣言した。10月15日の選挙ではイルハムが圧勝し、旧ソ連諸国で初の権力の世襲が実現した。アリエフは大統領職を譲った約2か月後、アメリカ・オハイオ州クリーブランドの病院で死去した。

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