HISTORICAL PERSON · 2003年没

ニーナ・シモン

アメリカのジャズ歌手・ピアニスト・公民権活動家。4歳からピアノを弾き、ジュリアード音楽院で学んだ。ジャズのほかブルースやゴスペルも歌い、高く評価された。

生涯
2003年没
死亡地
フランス共和国(ブーシュ=デュ=ローヌ県 / カリー=ル=ルエ)
出生地
アメリカ合衆国(トライオン)
出典
世界地図
フランス共和国(ブーシュ=デュ=ローヌ県)

伝記

ニーナ・シモンは、1933年2月21日に生まれ、2003年4月21日に没したアメリカ合衆国のアフリカ系の歌手、ピアニスト、公民権運動の活動家である。本名はユニース・キャスリン・ウェイモンといい、ジャズに限らず、フォーク、ブルース、ゴスペル、ポップスなど幅広い音楽を取り入れた。「ローリング・ストーン」誌が選ぶ史上最も偉大な100人の歌手では第29位、「Q」誌の同種の選出では第21位に挙げられている。

ノースカロライナ州トライオンの貧しく信心深い家庭に生まれた。きょうだいは、7人の6番目とも8人の6番目ともいわれる。母メアリー・ケイトはメソジスト派の牧師で家政婦、父ジョン・ディバインは大工で、クリーニング店も営んでいた。ピアノは3、4歳のころから弾き始め、教会で演奏するようになった。才能を知った母の雇い主が授業料を出し、のちには地元の基金も作られた。12歳の誕生日に開いた最初のリサイタルでは、前列にいた両親が白人のために後ろへ移らされると、彼女は抗議して、両親が前に戻されるまで弾くことを拒んだという。本人はのちにこの出来事が、公民権運動に関わるきっかけの一つになったと語っている。

10歳でノースカロライナ州アシュヴィルへ移り、女子高校を卒業した。名門のジュリアード音楽院でレッスンを受け、カーティス音楽学校への進学を試みたが断られた。1950年代前半のことで、黒人であったために差別された可能性がある。ピアノの講師などで生計を立てようとしたが苦しく、1954年、アトランティック・シティのバーでピアノを弾くことになった。オーナーに勧められて歌い始め、名をニーナと改め、尊敬するフランスの女優シモーヌ・シニョレにちなんでシモンと名乗った。歌手になることを認めなかった両親に隠れてブルースを歌うために、芸名を使ったという。1959年の「アイ・ラブ・ユー、ポーギー」がヒットし、音楽活動がようやく順調になっていった。

1960年代には黒人公民権運動に参加した。アラバマ州バーミングハムの教会爆破事件(1963年)や、ミシシッピ州での公民権運動家の殺害事件(1964年)に抗議して、「ミシシッピ・ゴッダム」を発表した。1967年に「自由になりたい」、1969年に彼女の作曲した「トゥー・ビー・ヤング・ギフティッド・アンド・ブラック」を発表し、後者は公民権運動のアンセムとして広く歌われた。1964年の「悲しき願い」は、のちにアニマルズやサンタ・エスメラルダが取り上げている。キング牧師の葬儀でも歌ったとされる。

1970年、マネージャーを務めていた夫アンドリューと離婚し、娘のリサを残してアメリカを出た。しばらくリベリアで音楽とは無縁の暮らしを送ったが、程なくフランスの音楽祭に出演した。1958年録音の「マイ・ベイビー・ジャスト・ケアズ・フォー・ミー」が1982年にイギリスでシングルとして発表され、1987年にはシャネルのコマーシャルに使われて、彼女は再び注目を集めた。オランダでの8公演を成功させ、完全に復帰した。1992年に自伝を出版し、双極性障害と闘いながら、2000年代にはフランスに住んで活動を続けた。乳がんとの闘病の末、2003年4月21日、フランスの自宅で亡くなった。2015年に伝記映画『ニーナ・シモン 魂の歌』が公開され、2018年にロックの殿堂入りを果たした。

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