HISTORICAL PERSON · 2003年没

宋美齢

中華民国の指導者、蔣介石の妻。日中戦争中にフライング・タイガースの設立に携わり、「中華民国空軍の母」と称された。回想録は書かず、『西安事変回憶録』を残した。

生涯
2003年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
中華人民共和国(浦東新区)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

宋美齢は、1898年3月4日に上海で生まれ、2003年10月23日に没した、中華民国の指導者蔣介石の妻である。日中戦争中にはアメリカ合衆国義勇軍「フライング・タイガース」の設立に携わり、「中華民国空軍の母」と称された。欧米では蔣夫人と呼ばれた。信仰はキリスト教の南メソジスト派で、最晩年まで篤く帰依した。

父の宋嘉澍は、孫文の支援者で、メソジスト教会の宣教師だったが、のちに布教をやめて商売に進み、浙江財閥の創始者として大富豪になった。彼女はその三女として上海の共同租界に生まれた。のちに孔祥熙の妻となる宋靄齢と、孫文の妻となる宋慶齢の二人の姉とともに、「宋氏三姉妹」として世界に知られ、政治家で実業家の宋子文は兄にあたる。1908年、9歳で姉の慶齢とともにアメリカへ留学し、ジョージア州メイコン郊外で中学校と高等学校の時代を過ごした。この時に身につけた流暢な英語が、のちの活動に大きな影響を与えた。勉学には熱心なほうではなく、学校の行事では旗手を務め、チアリーダーとしても活躍した。ジョージア州の女子大学に1年間通ってから、マサチューセッツ州の名門ウェルズリー大学に入り、1917年に首席で卒業した。帰国後は、布教に熱心だった父の意向を受け、中国国内でキリスト教の布教活動を行った。

1920年、上海にある孫文の旧居で蔣介石と出会い、約7年の交際を経て、1927年9月に求婚を受けた。11月には日本に滞在していた母の承諾を得て、12月1日に結婚した。式は宋家の客間でキリスト教の形式で行われた。蔣介石が離婚の経験者であることから牧師は立てず、中華キリスト教青年会全国協会の総幹事が代役を務め、蔡元培が立会人となった。披露宴は上海の大華飯店で開かれ、参列者は1300人を超えた。二人の結婚は、ニューヨーク・タイムズの一面を飾ったほどだった。一方で「政略結婚」と揶揄する向きもあった。蔣介石は、結婚を認めてもらうため、最初の妻や複数の愛人と別れ、キリスト教に改宗することを約束しなければならず、1929年に上海のメソジスト教会で洗礼を受けた。

1930年から1932年まで立法委員と国民党中央執行委員会の委員を務め、「夫人と相談せよ」が南京の流行語になるほど影響力を持った。1936年12月の西安事件では、自ら西安に飛んで張学良らと折衝し、蔣介石の解放に向けて動いた。1937年に日中戦争が始まると、航空委員会の秘書長として、通訳の立場で蔣介石の交渉に同席し、ジョセフ・スティルウェルやクレア・リー・シェンノートとの話し合いを通じて、アメリカの軍事援助を引き出した。1942年11月から翌年5月にはルーズベルト大統領の招きでアメリカを訪れ、各地で英語で演説し、1943年2月18日には連邦議会で抗日戦への協力を求めて称賛を浴びた。同年11月のカイロ会談にも同席して、蔣介石の通訳を務めた。

共産党との内戦に敗れた蔣介石が台湾へ撤退したとき、彼女は同行せず、1948年11月にアメリカへ渡って新しい大統領の説得を試みたが失敗し、1950年1月に台北へ移った。1975年に蔣介石が死去すると、アメリカへ移住した。1994年に姪の死を受けて最後に帰国し、2003年10月23日、ニューヨーク郊外にある姪の所有するマンションで105歳で亡くなった。自身は住宅を持たなかった。

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