HISTORICAL PERSON · 2003年没

ボブ・ホープ

イギリス生まれのアメリカのコメディアン・俳優。皮肉な毒舌と機知で親しまれ、映画やテレビのほか軍隊への慰問興行でも活躍し、1930年代から1990年代まで第一線に立った。

生涯
2003年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / トルーカ・レイク)
出生地
イギリス連邦(エルタム)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ボブ・ホープは、1903年5月29日にロンドンのエルタムで生まれ、のちにアメリカ合衆国で活躍した俳優、コメディアンである。本名はレスリー・タウンズ・ホープといった。七人兄弟の五番目で、父ウィリアム・ヘンリーは石工、母エイヴィス・タウンズはウェールズ出身のライトオペラ歌手だった。一家は英国内を転々とした後、1907年にアメリカのオハイオ州クリーブランドに移住した。コメディアンになる前には、「パッキー・イースト」の名でプロボクサーをしていたこともあるという。ドローレス・デフィーナとは、ナイトクラブで出会ってから二か月後に結婚したと伝えられ、二人は孤児院から四人の子を引き取って育てた。

1930年代中ごろには、ラジオスターとして人気を築いた。放送の経歴は64年に及び、とくにNBCとの縁が深い。映画界で名を上げたのは、1938年のミュージカル映画『百万弗大放送』で、豪華客船の船内アナウンサーを演じたときである。劇中で歌手シャーリー・ロスと歌ったバラード「サンクス・フォー・ザ・メモリー」は大ヒットして、作者はアカデミー賞の主題歌賞を受け、ホープは以後、これを自分の持ち歌、生涯のテーマソングとした。ビング・クロスビー、ドロシー・ラムーアと共演したパラマウント映画の「珍道中シリーズ」(1941年から)は、二人の掛け合いや楽屋落ちのギャグで人気を博した。日本では、グラマー女優のジェーン・ラッセルと共演した1948年の西部劇『腰抜け二挺拳銃』が広く知られ、劇中のホープが歌う「ボタンとリボン」は、英語のわからない当時の日本人にも親しまれた。主演男優賞など通常のアカデミー賞は受けなかったが、映画芸術科学アカデミーは、特別名誉賞や特別賞、ジーン・ハーショルト人道賞など、5回の表彰で敬意を表した。

ホープが最も得意としたのは、スタンダップ・コメディアンとしてのライブステージだった。1940年の8週間のツアーでは、当時の記録となる10万ドルを受け取ったと新聞は報じている。1941年5月6日にカリフォルニアのマーチ・フィールドで、最初の米国慰問協会のショーを行った。この時点でアメリカは参戦していなかった。その後、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争と、およそ60年にわたって約60回の慰問ツアーを重ねた。第二次世界大戦中、クロスビーとともに海軍の少佐として召集されるところだったが、ルーズベルト大統領が介入してこれを避けさせた。軍の全部門の活動を今までどおり続けるほうが兵士の士気を高めると考えたためとされ、以後は慰問活動を通じて軍隊と関わった。実際には多数のギャグライターを雇って笑いのネタを書かせていたが、アドリブの巧さは超一流で、聴衆に好まれた。

熱心なスポーツファンで、ゴルフの愛好でも名高く、ステージにも杖のようにゴルフクラブを持って立った。アメリカのほぼすべての大統領とゴルフをした。1949年の競泳の全米選手権で世界新記録を出した古橋廣之進を激賞し、ハリウッドを訪れた古橋にサインを求めたという。1962年には議会金メダル、1969年には自由勲章を受け、1978年には大英帝国勲章の騎士の叙爵を受けた。2003年5月29日には100歳の誕生日を祝い、「あまり年を取ったので血液型までなくなってしまった」と冗談を言った。2か月後の7月27日、肺炎のためハリウッド北のトルカレークの自宅で亡くなった。埋葬の方法を妻に尋ねられると、「何かびっくりさせてくれ」と答えたと、娘の一人は語っている。サンフェルナンド墓地に葬られた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物