伝記
堀江忠男は、1913年9月13日に静岡県浜名郡舞阪町(現在の浜松市)で生まれたサッカー選手であり、のちに指導者、経済学者となった人物である。現役時代の位置はフルバック(現在のディフェンダー)だった。静岡県立浜松第一中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)でサッカーを始め、早稲田高等学院を経て、早稲田大学政治経済学部に進んだ。在学中は、ア式蹴球部に所属し、早大WMWの選手として、のちに日本代表となる仲間たちと一緒にプレーした。
在学中の1934年5月、マニラで開かれた第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選ばれ、5月15日のフィリピン代表戦で初出場した。1936年にはベルリンオリンピックの日本代表にも選ばれた。この大会の1回戦、スウェーデン代表戦に、右のフルバックとして出場した。ところが前半15分、右腕を骨折するアクシデントに見舞われた。当時の公式戦では選手交代が認められておらず、堀江はそのままプレーを続けたが、日本の右サイドは再三破られた。前半のうちにスウェーデンが2点を挙げてリードしてハーフタイムに入った。後半に日本は3点を挙げて逆転勝利を収めた。これは日本のオリンピックでの初勝利で、「ベルリンの奇跡」として知られ、2016年にはこの代表チームが日本サッカー殿堂に選ばれた。右腕を骨折した堀江は、続く準々決勝のイタリア代表戦には出場できず、試合は0対8で日本が敗れた。代表での出場は、通算3試合である。
帰国後は、在学中から内定していた朝日新聞社に入社して、記者を15年務めた。1951年からは母校の早稲田大学政治経済学部で教授として教壇に立ち、あわせてア式蹴球部の監督も務めた。釜本邦茂や森孝慈らを擁した1966年度の第46回天皇杯全日本サッカー選手権大会では優勝を果たした。時代はすでに実業団へ移っており、大学勢として最後の天皇杯優勝チームになった。八重樫茂生、川淵三郎、宮本征勝、西野朗、岡田武史ら、多くの日本代表選手を指導した。
経済学者としては、マルクス経済学に関する論文や著作を数多く残し、早稲田大学の名誉教授となった。1987年から1993年までは、大月短期大学の学長を務めた。2003年3月29日、東京都中野区で肺炎のため亡くなった。89歳だった。
同じ年に亡くなった人物
- ダニエル・パトリック・モイニハン (2003年没)
- フェリックス・ロウストウ (2003年没)
- アニタ・ボルグ (2003年没)
- ペニー・シングルトン (2003年没)
- カルロス・ロベルト・レイナ (2003年没)