伝記
バリー・ホワイトは、1944年9月12日にアメリカ合衆国テキサス州ガルベストンで生まれたシンガーソングライターであり、音楽プロデューサーである。生まれたときの名はバリー・ユージーン・カーターといった。ピアノを弾く女優だった母サディと、機械工だった父メルヴィン・ホワイトの間に生まれた子で、弟もいた。父には別の家庭があったが、母はそれを知らなかったという。出生証明書の姓カーターを見た父は、これを消して自分の姓のホワイトに書き換えた。ロサンゼルス南部の黒人居住区ワッツで、貧しい家庭に育った。幼いころから身を守る術を覚え、10歳のころから少年たちのグループに加わった。15歳のとき、弟とともに、タイヤを盗んだ罪で4か月間拘置された。この間、ラジオから流れたエルヴィス・プレスリーの「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」に感銘を受け、生き方と付き合う仲間を変えようと決めたという。
音楽との縁は幼いころからあった。母は、慢性の関節炎で映画の仕事を断念した後、自宅でピアノを教えており、家ではモーツァルトやバッハ、ベートーヴェンが聞かれていた。5歳ごろ、母が音楽に傾く息子にピアノを買い与えたが、数回のレッスンでやめたものの、のちにピアノに戻り、ベースや歌も始めた。バプテスト教会の聖歌隊で歌い、才能を認められて、まもなく指揮をするようになった。ホワイトを後に有名にする低音の深い声は、14歳のある朝、突然に出た。それを聞いた母は驚き、やがて満面の笑みで涙を流し、「私の息子は一人前の男になった」と言ったと、本人は語っている。
1960年代初め、グループで歌手として活動を始めた。最初の商業的なシングルは、1960年にアップフロンツ名義で出した「トゥー・ファー・トゥ・ターン・アラウンド」だった。いくつもの小さな独立系レーベルでシングルを録音し、1960年代半ばには、ボブ・キーンに誘われて、ブロンコ・レコードで新人発掘などを担当する責任者となった。ここで作曲、編曲、プロデュースの腕を磨き、フェリス・テイラーのヒットを手がけた。ジーン・ペイジとの出会いも、この時期である。
最初の大きなヒットは、女性三人組ラヴ・アンリミテッドの「ウォーキング・イン・ザ・レイン・ウィズ・ザ・ワン・アイ・ラヴ」(1972年)で、曲にはホワイトの語りも入っていた。同年にはその最初のアルバムの作曲とプロデュースを担い、翌1973年から自分名義でも歌い始めた。ラヴ・アンリミテッド・オーケストラを編成し、その名義で出した「愛のテーマ」は大ヒットした。この曲には、デヴィッドT・ウォーカーやワーワー・ワトソンなど、のちに有名になる演奏家が何人も参加していた。1970年代には、深いベース・ボーカルで、「アイム・ゴナ・ラヴ・ユー・ジャスト・ア・リトル・モア・ベイビー」「ネヴァー・ネヴァー・ゴナ・ギヴ・ユー・アップ」などの洗練されたソウルとディスコのヒット曲を送り出した。「あふれる愛を」も代表作で、全米1位となった。関わったアルバムとシングルの総売上は1億枚に達するという。2000年には二つのグラミー賞を獲得している。
2002年9月、以前から患っていた高血圧に伴う腎臓の病気で入院し、人工透析を受けた。2003年5月には、カテーテルの手術のときに脳梗塞を起こし、右半身の麻痺と言語障害が残った。同年7月4日、腎不全の合併症のため、ロサンゼルスのシダーズ・シナイ医療センターで亡くなった。58歳だった。
同じ年に亡くなった人物
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