伝記
エル・グレコは、後期マニエリスムの巨匠として知られる画家である。本名はドミニコス・テオトコプーロスといい、通称の「エル・グレコ」は、スペインへ来る前にイタリアにいたことから、イタリア語で「ギリシア人」を意味する語に、スペイン語の男性定冠詞がついたものである。1541年、当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島の首都で港市のカンディア(現在のイラクリオ)に生まれた。父は官吏のヨルギで、10歳年上の兄マヌーソスがいた。ビザンティン帝国は1453年に滅んだが、旧支配地にはポスト・ビザンティン美術の伝統が残り、グレコはその影響のもとで育った。1563年にはイコン画家として独立しており、独学で、部分的にイタリア・ルネサンスの手法も取り入れたと考えられている。
1567年の春か夏、遅くとも1568年に、ジュリオ・クローヴィオの推薦でヴェネツィアへ渡った。ティツィアーノに弟子入りしたか、工房の外でその様式を学んだ可能性が高いとされる。ビザンティン方式を捨て去ったわけではなかったが、色彩、遠近法、解剖学、油彩技法などをヴェネツィア・ルネサンスの方式で習得した。イタリアでは、スペイン人の聖職者や人文主義者が訪れるアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の知的サークルと交流し、ファルネーゼ宮に自由に出入りできたという。1570年までヴェネツィアにとどまり、《エジプトへの逃避》や《受胎告知》などを描いた。1572年7月6日には、突然の解雇についてファルネーゼ枢機卿へ釈明を求める手紙を出している。同年、サン・ルーカ画家組合に「紙に描く画家」として登録され、組合員は親方に限られたので、すでに自分の工房を持っていたことが分かる。その後は個人の顧客向けの肖像画や小型の宗教画を描き、1576年から1577年ごろにはローマに住んだ。
1577年の春にはマドリードにいたことが記録されており、やがてトレドに定住した。スペインを目指した理由ははっきりしないが、ローマでミケランジェロを酷評したことが原因だとする伝説があり、一方でミケランジェロのデッサンは絶賛していた。トレドでの最初の仕事として大聖堂から《聖衣剥奪》を依頼されたが、完成後、大聖堂は「キリストに対する冒涜」を理由に報酬を踏み倒そうとした。グレコは裁判で争ったが、異端審問にかけると仄めかされ、当初の額の約三分の一という調停案を受け入れた。フェリペ2世に依頼された《聖マウリティウスの殉教》は、エル・エスコリアル修道院の祭壇画の一つとして描かれたが、1584年に受け入れを拒まれ、宮廷画家にはなれなかった。以後は工房を広げ、修道院や教区聖堂、礼拝堂の祭壇衝立の制作を続けた。晩年に至るまで作品にはギリシア語の本名で署名している。
1578年に、トレドの職人家庭の出であるヘロニマ・デ・ラス・クエバスとの間に息子ホルヘ・マヌエルをもうけた。二人は結婚せず、37年間トレドで同棲したとされる。1605年からは施療院と《慈愛の聖母》の評価額をめぐって対立し、1608年に1666ドゥカートが支払われることで決着した。1614年3月31日に遺言状を作り、同年4月7日に臨終の秘蹟を受けて世を去った。遺体はトレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会に納められた。1611年にグレコのアトリエを訪れたフランシスコ・パチェーコは、その学識を褒めつつも、荒っぽい下描きのような制作態度を酷評した。17世紀の画家の言葉に由来する「奇抜な」という評が、その後も定着した。
同じ年に亡くなった人物
- ラヴィニア・フォンターナ (1614年没)
- アンリ1世・ド・モンモランシー (1614年没)
- ブラントーム (フランスの作家) (1614年没)
- ペドロ・フェルナンデス・デ・キロス (1614年没)
- カミロ・デ・レリス (1614年没)
同じ地域に関係する人物
- アルフォンソ・サルメロン (1585年没)
- イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン (1539年没)
- ホルヘ・マヌエル・テオトコプリ (1631年没)
- バルトロメウ・デ・グスマン (1724年没)
- レオノール・デ・グスマン (1351年没)