HISTORICAL PERSON · 2004年没

フランシス・クリック

イギリスの生物学者。物理学から転向し、ワトソンとの共同研究でDNAの二重らせん構造を発見して1953年に論文を発表、1962年にノーベル生理学・医学賞を共同受賞した。

生涯
2004年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ラホヤ)
出生地
イギリス連邦(ノーザンプトン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

フランシス・ハリー・コンプトン・クリックは、1916年6月8日にイギリスのノーザンプトン近郊のウェストン・ファヴェルという小さな村で生まれた科学者である。父ハリーと母アンネ・エリザベスの最初の子で、父は叔父とともに靴やブーツを作る家業の工場を営んでいた。祖父のウォルターは在野の博物学者で、地元の有孔虫を調べて報告をまとめ、ダーウィンと文通もしたという。幼いころから科学に引かれ、多くのことを読書で学んだ。叔父には小屋でガラス細工や化学実験、写真の焼きつけを教わった。両親に連れられて教会に通っていたが、12歳のころ、もう教会には行きたくないと母に打ち明け、科学的に答えを探すことを選んで、のちには無神論に傾いた不可知論者となった。

ノーザンプトンのグラマースクールを経て、14歳のときに奨学生としてロンドンのミル・ヒル校に入り、数学、物理学、化学に親しんだ。ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで物理学を学び、1937年に学位を得て、博士課程では高温の水の粘度を測る研究に取り組んだ。のちにこれを「想像しうる最も退屈な問題」と自嘲気味に語っている。ところが第二次世界大戦の勃発で、物理学者としての道は変更を余儀なくされた。戦時中は海軍の研究所に勤め、磁気や音響に反応する機雷の設計や、ドイツの掃海艇に対抗する新型機雷の設計にも携わった。

1947年、戦争が終わると生物学を学び始めた。物理学から生物学へ転じて成功した、ジョン・ランドールらの影響が大きかったという。物理学の訓練を受けた生物学者として、次第に頭角を現し、転向してから6年足らずで世界的な論文の著者となった。1953年に科学雑誌『ネイチャー』に投稿した2ページの論文は、DNAの二重らせん構造を示し、遺伝が具体的な物質的基盤をもつ現象だと決定づけた記念碑的な論文となった。四つの塩基と糖、リン酸基の分子模型を使い、モーリス・ウィルキンスらのX線回折の写真を参考にしながら、ジェームズ・ワトソンとの共同研究で構造を見いだしたのである。論文は1953年4月25日発行の同誌に掲載された。この功績により、1962年にワトソン、ウィルキンスとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。1959年には王立協会のフェローに選ばれている。

ただし、DNAの構造解析の写真を撮影し、DNAが複数の鎖からなるらせん構造をとると最初に予測していたのは、ウィルキンスの共同研究者のロザリンド・フランクリンだった。彼女の発表前のレポートは、クリックの指導的な立場にあったマックス・ペルーツを通じて彼の手に渡り、ワトソンもウィルキンスから知らされていたとされる。

その後は米国のソーク研究所で研究生活を送り、1990年ごろからクリストフ・コッホと共同で、なぜ脳から意識が生じるのかという問題に取り組んだ。意識を脳内の生理学的な過程に置き換える還元主義の立場から研究し、1994年に『驚くべき仮説』を発表した。コッホには、意識の研究はキャリアを危険にさらしかねないと忠告したともされる。2004年7月28日、大腸癌のため、カリフォルニア州サンディエゴの病院で死去した。

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