伝記
ハーバート・チャールズ・ブラウンは、1912年5月22日にロンドンで生まれたアメリカの化学者である。出生名はハーバート・ブロヴァルニクといい、両親のパールとチャールズは、ウクライナのジトーミル出身のユダヤ人移民で、父は金物店の店長で大工でもあった。1914年6月、2歳のときに一家でシカゴに移った。シカゴの短期大学に通い、そこで、のちに妻となるサラ・ベイレンと出会った。大学が閉鎖の危機に瀕したため、2人は別の短期大学に移った。1935年にシカゴ大学に入り、2年分の勉強を3学期で終えて、1936年に学士号を取った。同じ年にアメリカに帰化し、大学院での研究を始めた。1937年2月6日にベイレンと結婚した。
のちに彼は、ホウ素の水素化物に関心を持ったきっかけを妻の贈った一冊の本に帰している。サラがその本を選んだのは、大学の書店で売っていた化学書のなかで一番安かったからだという。ブラウン自身は「私のイニシャルであるHCBは、水素と炭素の化学にホウ素を持ち込む運命を示していた」と述べている。大学院では、ヘルマン・アーヴィング・シュレジンジャーの研究室で、ジボランの反応を調べた。ジボランは希少で少量しか作れず、アルデヒドやケトンと反応してアルコールを生むことを見いだしたが、1939年に出した博士論文はほとんど関心を呼ばなかった。1938年に化学の博士号を取り、産業界に職を見つけられなかったため博士研究員の職を引き受け、1939年にシカゴ大学の講師となった。4年後にデトロイトのウェイン大学の助教授に移り、1947年にパデュー大学の教授になって、1978年に退官した後は、死去するまで名誉教授だった。
第二次世界大戦中、軍が運びやすい水素源を探していたことから、シュレジンジャーとともに、水素化ホウ素ナトリウムの製法を開発した。そのなかで偶然、この物質がケトンやアルデヒドをアルコールに還元することを見いだし、これが後の研究の出発点になった。さらに還元力の強い水素化アルミニウムリチウムの開発、ヒドロホウ素化反応の発見、その不斉化など数々の業績を挙げ、その多くは現代の有機化学に欠かせない反応となっている。非古典的カルボカチオン説にも反対し、1980年代にジョージ・オラーらがそれを立証するまで、論争を続けた。
1969年にアメリカ国家科学賞を受け、1971年にゴールデンプレート賞を得た。1979年には有機ホウ素化合物の研究により、ゲオルク・ウィッティヒとともにノーベル化学賞を受賞し、1981年にプリーストリー賞、1982年にパーキン・メダルも授与された。ストックホルムからの帰路、彼はメダルを運び、妻が賞金の10万ドルを運んだという。研究に集中するため、お金や家と庭の管理は妻に任せきりだった。92歳で死去するまで現役の化学者で、足かけ66年に1300報近い論文を発表した。2004年12月19日、インディアナ州ラファイエットの病院で心臓麻痺により亡くなり、妻は翌年5月に89歳で世を去った。2002年の90歳の誕生会では、留学生だった根岸英一と鈴木章をノーベル賞に推薦すると表明しており、2人は2010年にノーベル化学賞を受けた。パデュー大学にはブラウンの名を冠した研究室がある。
同じ年に亡くなった人物
- Mario Zatelli (2004年没)
- アントニオ・ガデス (2004年没)
- マーロン・ブランド (2004年没)
- マージョリー・コートニー=ラティマー (2004年没)
- エリック・ダグラス (2004年没)
同じ地域に関係する人物
- ビル・ブコビッチ (1955年没)
- エドナ・パーカー (2008年没)
- Donald E. Williams (2016年没)
- ケン・オルセン (2011年没)
- Kenny Rollins (2012年没)