伝記
ローラ・アン・ブラニガンは、1952年7月3日にニューヨーク州で生まれたアメリカの女性歌手である。出生地はブリュースターとも、マウント・キスコとも伝えられる。アイルランド系の両親、父ジェームスと母キャスリーンの5人の子の4番目で、祖母はオペラ歌手、母はラジオ局専属の歌手だった。のちに両親は別居した。弟のウィリアムも音楽家で、彼女のバンドでギターを弾き、後年のアルバムでは共同制作者を務めた。アームンクで育ち、カトリックの学校に通ったあと、1966年から1970年までバイラム・ヒルズ高校に在学した。最終学年にミュージカルの主役を演じたことが、歌の道へ進むきっかけになった。
卒業後はマンハッタンに移り、1970年から1972年にかけてアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに通い、ウェイトレスをして生計を立てた。1972年に知り合ったギタリストらとフォーク・ロックのバンド、メドウを結成してボーカルを務め、1973年にアルバム『フレンドシップ』を出したが、十分に宣伝されず再発売もされなかった。バンドは解散し、彼女はその関係について公に語ることを好まなかった。その後はいくつもの仕事を経て、1976年4月から8月までのレナード・コーエンのヨーロッパ・ツアーでバック・ボーカルを務めた。1978年3月17日、聖パトリックの祝日にマンハッタンのパーティで弁護士のラリー・クルーテックと出会い、約9か月の交際を経て、同年12月8日に結婚した。1979年にアトランティック・レコードと契約したが、同社は数年間、その力強い声の位置づけに苦労した。
1982年のアルバム『グロリア』でデビューし、シングル「グロリア」は全米ホット100で2位に達し、36週にわたって圏内にとどまって、女性歌手として記録となった。この曲はイタリアの作曲家たちの曲のカヴァーだった。1983年の「哀しみのソリテアー」と「愛を知って」も大ヒットした。1984年のアルバム『セルフ・コントロール』は最大のヒット作となり、西ドイツ、アルゼンチンなど多くの国で1位になった。同年4月、「ラッキー・ワン」が第13回東京音楽祭でグランプリを受けた。「セルフ・コントロール」のプロモーションビデオは過激な内容のためMTVで放送禁止とされたが、のちに解禁された。5オクターブにわたる硬質な声と、大柄な体格を生かしたステージで人気を博し、とくにラテン・アメリカと南アフリカで絶大な支持を得た。映画『フラッシュダンス』などのサウンドトラックにも参加し、映画やテレビドラマへの出演も多い。
1993年にアルバムを出した後、夫ラリーが結腸癌を患い、看病のために活動を減らした。夫は1996年6月15日に亡くなり、彼女は数年間活動を休止した。2001年に自宅の庭仕事中に梯子から落ちて両大腿骨を骨折し、復帰が遅れたが、翌年から活動を再開し、ミュージカルでジャニス・ジョプリンの歌唱役を務めた。2004年8月26日、自宅で脳動脈瘤により52歳で亡くなった。友人によると、死の数日前から頭痛を訴えていたが、夫の死から医療への不信を抱き、医者にかかろうとしなかったという。遺灰はロングアイランド湾に散骨された。
同じ年に亡くなった人物
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