伝記
ナラシンハ・ラーオは、1921年6月28日に生まれ、2004年12月23日に亡くなったインドの政治家で、第10代の首相を務めた。日本では「ナラシマ・ラオ首相」と表記されることも多い。フルネームはパムラパルティ・ヴェンカタ・ナラシンハ・ラーオで、インド国民会議派に所属した。
当時のハイダラーバード藩王国の領内、現在のテランガーナ州にあたるワランガル県のラクネパッリ村に、テルグ語を話す家庭の子として生まれた。父シタラーマ・ラーオと母ルクマー・バーイはともに農家の出身だったが、3歳のとき、パムラパルティ・ランガ・ラーオとルクミナンマの夫妻の養子となり、ヴァンガラ村で育てられた。初等教育の一部を親戚の家に住みながら受け、大学ではオスマニア大学の芸術学部に学び、1930年代後半にはハイダラーバード藩王国でのヴァンデ・マータラム運動に加わった。のちにヒスロップ・カレッジで法学の修士号を取得し、プネーのファーガソン・カレッジでも法学を修めた。1940年代には遠縁の親戚らとテルグ語の週刊誌を編集し、「ジャヤ・ヴィジャヤ」という筆名で記事を書いた。語学の才能にも恵まれ、17の言語を話したとされる。文学のほか、コンピュータのプログラミングにも関心があった。
独立運動に積極的に参加し、独立後は国民会議派の議員として政治に専念した。1957年から1977年までアーンドラ・プラデーシュ州議会の議員を務め、1971年には同州の首相になって、土地改革を厳格に実施し、下位カーストの政治的な議席枠の確保にも努めた。1977年に下院議員選挙に立候補して当選し、以後はインディラ・ガンディー、ラジーヴ・ガンディーの両政権で内務大臣、国防大臣、外務大臣を歴任した。外務大臣は1980年から1984年と、1988年から1989年に務めた。
1991年の連邦下院選では引退を表明して立候補しなかったが、総選挙のさなかに国民会議派総裁のラジーヴ・ガンディー元首相が暗殺され、急遽後継の総裁に選ばれた。選挙後に首相に就任し、少数与党の政権を率いて、1996年まで務めた。ネルー=ガンディー家の外から出て5年間続けて首相を務めた最初の人物であり、南インドから出た最初の首相でもある。議席を持たなかったため、補欠選挙で当選した。在任中は、改革派のマンモハン・シンを財務大臣に抜擢し、従来の国民会議派の社会主義的な色彩の強い経済政策を転換した。外資の導入や経済の自由化などの改革を進め、中国で改革開放を進めた鄧小平から着想を得ていたとされる。
一方で、経済格差が広がり、政権も腐敗したと言われた。ラーオ本人も、在任中に内閣不信任案の可決を阻むため議員に資金を渡した疑いで、買収などの3件の罪状で起訴されたが、のちに無罪判決を勝ち取っている。改革の恩恵が富裕層に偏ったことから、貧困層の離反を招き、1996年の連邦下院選では大敗した。2004年12月8日に心臓発作で倒れ、ニューデリーの病院に入院して、12月23日に死去した。遺体は、ハイダラーバードで荼毘に付された。2024年には死後にインドの最高位の民間人叙勲、バーラト・ラトナを追贈された。
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