伝記
ウィリアム・シェイクスピアは、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物である。卓越した人間観察にもとづく内面の心理描写で、英文学の最も優れた作家とされ、膨大な著作は初期近代英語を知る貴重な資料にもなっている。1564年にストラトフォード・アポン・エイヴォンに生まれた。正確な誕生日は不明で、4月26日に洗礼を受けた記録が最古の公的記録である。洗礼は生誕後3日以内に行うのが通例だったため、伝統的に4月23日が誕生日とされてきたが、直接の証拠があるわけではない。この日はイングランドの守護聖人聖ゲオルギオスの日にあたり、没した1616年4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)と対称になることも、この推定を支えている。
父ジョンはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれた市会議員であった。母メアリー・アーデンはジェントルマンの娘で、家庭は裕福だった。夫婦には八人の子がいた。だが父は、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴されて市長職を失ったという。両家ともローマ・カトリックの信者だった可能性が推測されている。ウィリアムは町のグラマー・スクールに通ったと推定されている。そこではラテン語の文法や文学を集中して学び、ラテン演劇に触れる機会もあった。最初期の戯曲『間違いの喜劇』がプラウトゥスの戯曲と似ていることも、その根拠の一つとされる。家が傾いたため中退したという説が有力だが、学籍簿が散逸しており、在籍の確証はない。
1582年11月29日、18歳で26歳のアン・ハサウェイと結婚した。アンはすでに妊娠三か月で、式を急ぐ必要があったらしい。1583年に長女スザンナが洗礼を受け、1585年には長男ハムネットと次女ジュディスの双子が生まれた。ハムネットは1596年に夭折した。1585年から、ロバート・グリーンが言及した1592年までの7年間は、どこで何をしていたのか一切不明で、「失われた年月」と呼ばれる。鹿泥棒をして故郷を追われた、田舎の教師をしていたなどの伝説があるが、証拠はなく、死後に広まった噂である。ランカシャーで教職についていたとする説もあり、これはある貴族の遺言書に見える「ウィリアム・シェイクシャフト」なる人物を、シェイクスピアではないかとする主張にもとづく。
1592年ごろまでにロンドンに進出し、俳優のかたわら次第に脚本を書くようになった。この年、グリーンは著書で、自分たちの羽で着飾った成り上がりのカラスが、最良の書き手と同じほどのブランク・ヴァースを紡げると慢心し、舞台を揺るがす者を自任していると書いた。他の作家から中傷されるほどの名声を、すでに得ていたことがわかる。1593年に物語詩『ヴィーナスとアドーニス』をサウサンプトン伯に捧げ、翌年も『ルークリース凌辱』を捧げてパトロンを得た。1594年の終わりごろには、宮内大臣一座の共同所有者となり、本拠地グローブ座の共同株主にもなった。1601年、サウサンプトン伯らのクーデターの前日、一味から金を支払われて『リチャード二世』を上演し、政府の取り調べを受けたが、お咎めはなかった。1603年にジェームズ1世が即位して庇護を約束すると、一座は国王一座と改称した。1613年ごろ引退するまでの約20年に、四大悲劇をはじめ多くの傑作を残し、『ソネット集』は最高の詩編の一つとされる。
2002年のBBCの「100名の最も偉大な英国人」投票では、第5位に選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1574-1616) (1616年没)
- フランシス・ボーモント (1616年没)
- 湯顕祖 (1616年没)
- 徳川家康 (1616年没)
- ディオゴ・デ・コート (1616年没)
同じ地域に関係する人物
- エディ・ハプグッド (1973年没)
- ウィリアム・レンショー (1904年没)
- シリル・ラドクリフ (1977年没)
- トーマス・アーノルド (1842年没)
- スティーヴン・ランシマン (2000年没)