HISTORICAL PERSON · 1617年没

ジョン・ネイピア

対数の発見者として知られるスコットランドのバロン。数学者・天文学者でもあり、計算器具「ネイピアの骨」を考案。熱心なプロテスタントだった。

生涯
1617年没
死亡地
イギリス連邦(エディンバラ)
出生地
イギリス連邦(マーキストン城)
出典
世界地図
イギリス連邦(エディンバラ)

伝記

ジョン・ネイピアは、スコットランドの領主で、数学者、物理学者、天文学者、占星術師としても知られる人物である。1550年2月1日にエディンバラ近郊のマーキストン城で生まれ、1617年4月4日に没した。熱心なプロテスタントで、幅広い事柄に興味を持って研究し、特に対数の発見者として名高い。

父はアーチボルド・ネイピア、母はジャネット・ボスウェルで、父はジョンが生まれたとき16歳だった。1563年にセント・アンドルーズ大学に入学したが、その直後に母が亡くなり、大学を中退したらしい。叔父の司教は、この子は国内では何も学べないと、フランスかフランドルの学校へ遣るよう父に手紙で勧めており、ネイピアはフランスをはじめ諸外国を遍歴したらしいが、詳しいことは分かっていない。どこの大学に通ったかも不明だが、1571年頃に故郷へ戻ったときにはギリシア語に通じていた。父の再婚に立ち会い、翌年に父から土地を譲られてガートネス城に居を構え、エリザベス・スターリングと結婚して2人の子をもうけた。1579年にエリザベスが亡くなると、アグネス・チザムと再婚し、10人の子をもうけた。この年、炭坑から水をくみ出す装置を発明している。領地の収穫を増やすため肥料や揚水機の研究をしたり、スペインの侵攻に備えて兵器を発案したりもした。1596年には、船を遠くから焼く鏡や特殊な砲弾、銃弾を防ぐ金属の戦車などを記した文書を書いている。使用人の盗みを疑ったとき、煤を塗った鶏を暗い部屋に置いて全員に触らせ、触らなかった者の手が汚れていないことから犯人を突き止めたという逸話もある。

宗教活動にも熱心で、1593年にヨハネの黙示録を独自に解釈し、カトリック教会を激しく批判した『ヨハネの黙示録の真相』を出版した。この中で最後の審判の日を1688年ないし1700年と予言している。本は好評で、死後も版を重ねて21版に及び、多くの言語に翻訳された。

1594年に対数の概念に到達し、以後20年にわたって対数表の作成に従事した。対数はかけ算を足し算に、割り算を引き算に変えるもので、膨大な計算を容易にする。対数の概念の発見自体はビュルギのほうが先だったが、ビュルギが長く発表しなかったため、対数はネイピアの業績として知られる。ネイピアの対数は現代のものとは形が異なり、小数を避けて整数で表され、7桁の対数表を1614年にラテン語の論文で発表した。ラプラスは、対数が天文学者の寿命を2倍にしたと称賛している。1608年に父が亡くなるとマーキストン城の8代目の城主となった。1615年の夏には、ロンドンのグレシャム大学の幾何学教授ヘンリー・ブリッグスがエディンバラを訪ね、1か月ほど滞在して対数について議論した。翌年も訪れ、その次の年にも会う予定だったが、1617年4月4日にネイピアが城で息を引き取ったため、実現しなかった。この議論から常用対数や底の概念が生まれ、対数が現代に近い形に確立された。ネイピアは痛風のため67歳で亡くなり、セント・ジャイルズの墓地に葬られた。

もう一つの発明にネイピアの骨があり、かけ算を足し算だけの計算にする道具である。1623年にシッカードが歯車で自動化し、世界初の歯車式計算機となった。1619年に息子ロバートが出版した遺稿では、小数点の使用が提案され、この発明も世界中に広まった。

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