伝記
趙紫陽は、1919年10月17日に河南省滑県で、富農の趙廷賓の長男として生まれた中華人民共和国の政治家である。原名は趙修業だが、少年のころにはすでに自ら趙紫陽と名乗っていた。1932年に国民党と対立していた中国共産主義青年団に加わり、日中戦争のさなかの1938年2月に中国共産党に入党した。中華人民共和国の成立後は広東省党委員会の第三書記などを務めた。大躍進の失敗で香港へ逃げ込んだ人びとがイギリス政府に送還された際には、自分たちが食べさせられないのだから仕方がないと述べ、彼らを厳しく責めなかった。農家を視察して政策の失敗を目の当たりにしていたからで、三自一包などの調整政策を実行して広東の経済はやや好転した。1966年4月には、46歳と当時最年少で広東省党委員会第一書記となったが、陶鋳が間もなく打倒されると、広東における陶鋳の代理人として批判を受け、失脚した。
1971年に復権して広東省省長、四川省省長などを務めた。1975年からの5年間、四川省党委員会第一書記として「四川経験」と呼ばれる経済改革を行い、農家経営請負制を導入して、農業生産が飛躍的に向上した。万里が党委書記を務めた安徽省とともに農村改革が進み、「米が食べたければ万里を探せ、メシが欲しければ趙紫陽を探せ」という言葉が流行した。この実績を鄧小平に注目されて抜擢され、1979年に政治局委員、1980年に政治局常務委員、国務院副総理と着実に昇進した。同年9月、華国鋒に代わって国務院総理に就任し、党総書記の胡耀邦とともに鄧小平を支える「車の両輪」と呼ばれた。1981年には党中央委員会副主席に選ばれた。
1987年1月に胡耀邦が解任されると総書記代行となり、同年11月に党総書記に選出された。経済政策に専念したかったが、他の誰かがやるよりは自分がやったほうがましだと思った、と回顧している。しかし1988年夏の価格改革を契機にハイパーインフレが起こり、その責任をとって、経済政策の主導権を保守派の李鵬と姚依林に譲った。1989年4月、北朝鮮を訪問中に学生運動が動乱と表現され、帰国後に論調を和らげるよう主張して鄧小平や李鵬と論戦になった。5月4日にはアジア開発銀行の総会で、学生たちの理にかなった要求は民主と法律を通じて満たすべきだと演説した。しかし学生が絶食を始めて穏健策は破綻し、5月17日の常務委員会で鄧小平が戒厳令を提案した。19日未明、趙は天安門広場の学生たちのもとへ向かい、我々は来るのが遅すぎた、申し訳ない、と声を詰まらせながら絶食をやめるよう呼びかけた。公の場に姿を見せたのはこれが最後となり、6月3日から4日にデモ隊は武力で弾圧された。
6月下旬の党の会議で、動乱を支持し党を分裂させたとして、党の全職務を解任された。党籍だけはそのまま残された。以後は自宅軟禁下に置かれ、趣味のゴルフなどを楽しんでいたが、1997年に天安門事件の再評価を求める書簡を送ってからは、外出が制限された。鄧小平は、武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許すという手紙を3度送ったが、趙は信念に基づくものだと拒んだとも言われる。呼吸器系などの病気で北京の病院に入院し、2005年1月17日午前7時1分に死去した。葬儀は党中央が主催し、八宝山に埋葬された。軟禁中の肉声は秘かに録音され、『趙紫陽 極秘回想録』にまとめられた。
同じ年に亡くなった人物
- イヴォンヌ・ベラ (2005年没)
- ジェームズ・ストックデール (2005年没)
- June Lang (2005年没)
- ラースロー・フェイェシュ=トート (2005年没)
- チェスワフ・スワニア (2005年没)