伝記
ロバート・ワイズは、1914年9月10日にインディアナ州ウィンチェスターで生まれ、2005年9月14日に亡くなったアメリカ合衆国の映画監督、プロデューサーである。本名はロバート・アール・ワイズ。『ウエスト・サイド物語』と『サウンド・オブ・ミュージック』で2度アカデミー監督賞を受けた。
食肉加工業者の父と母の末の息子に生まれ、兄にデヴィッドがいた。一家は同じ州のコナーズヴィルに移り、ワイズは公立学校に通った。子どものころの一番の楽しみは映画館へ行くことで、高校の新聞には、ユーモアやスポーツのコラムを書いていた。はじめはジャーナリストを志し、奨学金を得て、インディアナポリスの南にある小さな大学、フランクリン・カレッジに進んだ。しかし1933年、大恐慌による家計の苦しさのために、2年目に大学へ戻れなくなり、ハリウッドへ移った。数年前にハリウッドへ行ってRKOで働いていた兄が、発送部門の仕事を見つけてくれた。雑用をしながら、スタジオの音響効果の主任の助手になり、音響と音楽の編集者としてキャリアを始めた。
やがて内容を編集する仕事に関心が移り、編集者のウィリアム・ハミルトンの助手に就いた。『ノートルダムの傴僂男』(1939年)では、助手として長編映画で初めてクレジットされた。同じ年の作品などで、編集を一人で担当するようになる。オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年)では編集を務めてアカデミー編集賞の候補になり、続く『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942年)でも編集に携わり、場面を追加撮影するよう頼まれた。ウェルズがスタジオを追われたあとも編集を続けたのち、最初の監督の仕事を受けた。
1944年の『キャット・ピープルの呪い』が監督デビュー作で、後にカルト映画として評価される恐怖映画『キャット・ピープル』(1942年)の続編であった。初期の作品は、当時のハリウッドの配給制度ではB級に属するものが多かったが、手堅い手腕を見せ、意欲的な着想がしばしば盛り込まれていた。1949年の『罠』は、ロバート・ライアン主演のボクシング映画で、わずか1時間強の長さの中で、劇中の時間と上映時間を同じに進め、八百長試合をめぐる緊迫を描いた。この作品では音楽を劇中の音源に限り、1954年の『重役室』では音楽をまったく使わなかった。ほかに、ミュージカル、サスペンス、SFなどさまざまなジャンルを手がけた。代表作に、『地球の静止する日』や、『傷だらけの栄光』、『深く静かに潜航せよ』、スーザン・ヘイワードが主演女優賞を得た『私は死にたくない』などがある。『私は死にたくない』では、自身もアカデミー監督賞の候補になった。
1961年には、ジェローム・ロビンズと共同で監督と製作を務めた『ウエスト・サイド物語』で監督賞を受け、1965年には『サウンド・オブ・ミュージック』で2度目の監督賞を獲得した。『砲艦サンパブロ』(1966年)も作品賞の候補になった。1970年代の代表作に、『アンドロメダ…』『ヒンデンブルグ』『オードリー・ローズ』、そして『スタートレック』の劇場版第1作がある。1989年の『ルーフ・トップ』が、最後の劇場公開作となった。1971年から1975年まで全米監督協会の会長を、1985年から1988年までは映画芸術科学アカデミーの会長を務め、1998年にはアメリカ映画協会の功労賞を受けた。晩年は自作のDVD版の制作にも関わった。2005年9月14日、91歳の誕生日の4日後に、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の病院に担ぎ込まれ、心不全で亡くなった。
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