HISTORICAL PERSON · 1618年没

ウォルター・ローリー

エリザベス1世の寵臣となったイングランドの廷臣・探検家。1584年にロアノーク島を探検させてバージニアと名付け、新世界初のイングランド植民地を築いたが、入植は放棄を余儀なくされた。

生涯
1618年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(Hayes Barton)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ウォルター・ローリーは、1552年ごろ(または1554年)にデヴォンのヘイズ・バートンの家で生まれ、1618年10月29日に没したイングランドの廷臣、軍人、探検家、作家、詩人である。父は同名のウォルター・ローリーで、ゲール系ウェールズ人のジェントリだったとされ、母キャサリン・シャンパナウンはフランス出身とされる。両親はいずれも結婚を繰り返しており、異父兄にジョン・ギルバートやハンフリー・ギルバートらがいた。家は宗教的にはプロテスタント寄りで、カトリックの女王メアリー1世の治世には何度か逃走を経験し、父は殺害を避けるために塔に身を隠したこともあった。こうして幼少期にカトリックへの憎しみを培ったとされる。

1568年にフランスへ渡ってユグノー戦争で傭兵としてユグノーに加勢し、帰国後の1572年にオックスフォード大学オリオル・カレッジの学生となり、1575年にはミドル・テンプル法曹院に入学した。1578年に異父兄ハンフリーの探検航海に参加し、1580年から1581年には政府に雇われた隊長としてアイルランドのデズモンドの反乱の鎮圧に従い、上陸した教皇の援軍を虐殺して注目を集めた。1581年の帰国後は軍功を認められてエリザベス1世の寵臣に抜擢され、長身の美貌で女王に気に入られた。1583年にはハンフリーの北アメリカ遠征に自前の帆船で参加し、ハンフリーは帰りの航路で遭難死したが、ローリーは生還して1585年にサーの称号を授かった。ラシャの輸出や輸入ワインの専売権などの利権も与えられ、1587年には国王親衛隊隊長となって出世は頂点に達した。1584年と1586年の議会では庶民院議員にも選ばれている。

1584年には2隻の船を送ってノースカロライナ州のロアノーク島を探検させ、処女王にちなみバージニアと名付けた。新世界における最初のイングランド植民地は、ここにローリーによって築かれたが、入植者に農業の技術がなく、土壌が砂状で乾いていたこと、先住民との関係が破綻したことなどから、放棄を余儀なくされた。1587年には再び植民が試みられ、ジョン・ホワイトの下に入植者が渡ったが、ホワイトが物資の調達で呼び戻された後、無敵艦隊との戦いに備えた女王の命令で戻れなかった。1590年に物資が届いたとき、入植者は姿を消しており、木の幹に「クロアトアン」という単語が刻まれているだけだった。この入植は「失われた植民地」として知られる。それでも、ホワイトに指示した統治方針は、のちのイギリスの植民地統治の手本になったとされる。

アイルランドの反乱鎮圧に加わった後の土地接収と分配で、ヨールとリズモアの二つの町を含む4万エーカーの土地を得て、マンスターの大地主の一人となった。1588年から1589年にはヨールの町長も務め、詩人エドマンド・スペンサーと知り合った。ただし領地は困窮し、1602年にコーク伯リチャード・ボイルに売却した。

1587年ごろからエセックス伯が女王の新たな寵臣になると、栄光に陰りが見え始め、1591年に女官エリザベス・スロックモートンと秘密結婚したことで宮廷での立場を失った。1592年に発覚すると、女王はローリーをロンドン塔に投獄したが、その前にアゾレス沖でスペイン貨物船団を捕獲して得た報奨金が事実上の保釈金となり、釈放された。1600年から1603年にはジャージー島の防衛網の近代化に努めた。1603年にジェームズ1世が即位すると、メイン陰謀事件への関与を疑われて裁判にかけられ、ロンドン塔に1616年まで監禁され、その間に『世界の歴史』を著した。

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