伝記
コレッタ・スコット・キングは、1927年4月27日に生まれ、2006年1月30日に没したアメリカ合衆国の作家であり、活動家、公民権運動の指導者である。1953年から1968年に暗殺されるまで、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの妻だった。「公民権運動のファーストレディ」と呼ばれ、アラバマ州女性の殿堂に登録された。ジョージア州議会議事堂で遺体が安置された最初のアフリカ系アメリカ人でもある。
アラバマ州で、オバダイア・スコットとバーニス・マクマリー・スコットの間に、4人きょうだいの3番目として生まれた。母は音楽の才と歌声で知られた。父は町で早くに車を持った黒人の1人で、商売を始める前は警官をしていたが、材木工場を白人の隣人に焼かれたこともあったという。大恐慌の時代には、子どもたちが綿摘みをして家計を助けた。母方の祖父マーティンは、独学で読み書きを身につけた人物で、コレッタの教育への情熱を鼓舞したとされる。1945年にリンカーン師範学校を卒業し、卒業式では卒業生総代を務めた。在学中は、トランペットやピアノを演奏し、合唱団で歌い、学校のミュージカルにも参加した。オハイオ州イエロースプリングスのアンティオック大学に進み、財政援助を受けるために異人種間奨学金基金に申請した。伝統的に白人の多い学部で初めての非白人教授となったウォルター・アンダーソンのもとで音楽を学んだ。
ボストンの大学院に通っていたときに夫と出会った。1953年6月18日、母の家の庭で、キング・ジュニアの父の司式により結婚式が行われた。コレッタは結婚式で夫に従う誓いをしなかったが、これは当時としては珍しかった。ニューイングランド音楽院で声楽とピアノの学位を修めたのち、1954年9月にアラバマ州モンゴメリーへ夫とともに移り、バス・ボイコットなどの運動にかかわるようになった。夫がデクスター通りバプティスト教会の専任牧師になったことは、クラシックの歌手になる夢をあきらめる犠牲でもあり、大きな失望だったが、運動への献身は、運動の中のアフリカ系アメリカ人女性の象徴となった。1956年1月30日、自宅が爆破された。コレッタと娘は無事で、居間は煙と砕けたガラスでいっぱいになった。戻った夫は、銃を持って怒る支持者たちを、とっさの演説でなだめた。父は娘と孫を連れ帰ろうとしたが、コレッタは夫とともにとどまると主張した。この時、夫にとって自分がどれほど意味のある存在かに初めて気づいたと、後に語っている。
夫が暗殺された1968年の翌年から、毎年1月15日の誕生記念の礼拝に出席した。夫の誕生日を国民の休日にするため、何年も戦い、1983年にレーガン大統領が法律に署名し、1986年にキング牧師記念日が連邦祝日として実施された。キング・センターも創設し、のちには同性愛者の権利の擁護や、アパルトヘイトへの反対にも活動を広げた。1999年、キング家はロイド・ジョーズを訴えた民事裁判で、キングが殺人の陰謀の犠牲者であったとする陪審の判決を得た。晩年の10年間は菜食主義者になった。2005年8月に脳卒中で右半身が麻痺し、話せなくなり、5か月後の2006年1月30日深夜、メキシコのリハビリ施設で、卵巣癌の合併症による呼吸不全のため亡くなった。葬儀には約1万人が参列し、歴代の大統領も出席した。
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