伝記
デイム・ミュリエル・スパークは、1918年2月1日にスコットランドのエディンバラで生まれた小説家である。本名はミュリエル・サラ・キャンバーグといい、エディンバラのブラントスフィールド地区で、技師のバーナード・キャンバーグと、サラ・エリザベス・モードの間に生まれた。父はリトアニアからの移民を両親にもつユダヤ人で、母は英国国教会の信者として育ったイングランド人だった。1923年から1935年までジェームズ・ギルスピー女子高等学校で学び、その中でスコットランド長老派の教えにも触れた。1934年から翌年にかけては、ヘリオット・ワット・カレッジで「営業文書と大意筆記」の課程を修めた。その後、短期間英語を教え、デパートの秘書として働いた。
1937年、13歳年上のシドニー・オズワルド・スパークと婚約し、同年8月、彼を追って南ローデシア(現在のジンバブエ)に渡って、9月3日にソールズベリーで結婚した。1938年7月に一人息子が生まれた。しかし数か月のうちに、夫が躁うつ病で、激しい暴力に走りがちなことを知った。1940年に夫のもとを去り、息子を一時修道院付属の学校に預けた。戦時中は子供の渡航が許されなかったためである。1944年のはじめにイギリスへ戻り、ロンドンのヘレナ・クラブに住み、第二次世界大戦の終わりまで諜報機関で働いた。のちに息子は父とともにイギリスへ戻り、スコットランドで母方の祖父母に育てられた。
戦後、結婚後の名前ミュリエル・スパークで本格的に書き始め、最初は詩と文芸評論が中心だった。1947年には『ポエトリー・レビュー』誌の編集者となり、当時としては数少ない女性編集者の一人だった。1948年に同誌を去った。1953年に英国国教会で洗礼を受けたが、翌1954年にローマ・カトリック教会に入り、これが自分を小説家にした決定的な転機だったと見なした。同時代の小説家ペネロピ・フィッツジェラルドは、スパークが「自分がカトリック教徒になるまでは、小説家に必要なように、人間の存在を全体として見ることができなかった」と強調していたと記している。グレアム・グリーンやイーヴリン・ウォーが、この決断を支えた。
1957年の最初の小説『慰める者たち』は、批評家から大きな称賛を受けた。主人公の若い女性が、自分が小説の登場人物だと気づくという内容である。1961年の『ミス・ブロウディの青春』は、さらに成功した。主題と語り口の独創性は、最初期から際立っており、この作品では、場面の先取りや想像上の会話を多用した。作中のマーシア・ブレイン校のモデルは、彼女が通った高校だったことがされている。1963年の『貧しい娘たち』は、住んでいたヘレナ・クラブをもとに架空のクラブを描いた。1965年には『マンデルバウム・ゲイト』でジェームズ・テイト・ブラック記念賞を受けた。
ニューヨークで数年暮らした後ローマに移り、1968年に彫刻家ペネロピ・ジャーディンと出会った。1970年代初めにトスカーナ地方に落ち着き、キアーナ渓谷のチヴィテッラ近くの村オリヴェートで暮らした。この村は2005年に彼女を名誉住民に選んでいる。ニューヨーク時代からレズビアンだという噂が絶えなかったが、本人も友人たちも否定した。遺産のすべてをジャーディンに残し、息子には何も渡らないようにした。1992年に英国インガーソル財団のT・S・エリオット賞を、1997年に英国文学賞を受け、1993年には大英帝国勲章を受けた。2006年4月13日、フィレンツェで、88歳で亡くなった。オリヴェートの墓地に葬られている。
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