伝記
フェレンツ・プスカシュは、1927年4月2日にハンガリーのブダペストで生まれ、2006年11月17日に没したサッカー選手である。ハンガリー代表の主将として、1950年代前半に「マジック・マジャール」と呼ばれたチームの中心となった。左足の技巧と強力なシュートを持ち味とし、「疾走少佐」と呼ばれた。史上最高のサッカー選手の一人と評され、スポーツ史上初めて世界的なスーパースターになった人物ともいわれる。
ブダペストの労働者階級の地区で生まれ、近郊のキシュペシュトで育った。一家はドイツに起源を持ち、元の苗字はプルツェルトだったが、1930年代にプスカシュに改めた。父は同名のフェレンツで、セミプロの選手だった。引退後はキシュペシュトで指導者となり、トップチームの監督も務めた。一家はクラブのホームグラウンドの隣に建つアパートに住み、4歳でサッカーを始めた彼は、隣室のボジク・ヨージェフとボールを蹴り合っていた。9歳でボジクとともにクラブのジュニアチームに入ったが、年齢の下限に満たなかったため、12歳になるまで、コヴァーチ・ミクローシュという偽名で年齢を偽ってプレーした。1943年12月、16歳でトップチームにデビューし、3試合目で初ゴールを記録した。
戦後の1946年にリーグが再開されると、父が監督に復帰したクラブで、主将を任された。1947-48年のシーズンには50ゴールで初めて得点王となり、その後も1949-50年、1950年、1953年のシーズンに得点王となった。1949年、共産党の一党独裁体制となったハンガリーで、クラブは陸軍のクラブとして再編されてホンヴェードと改名され、選手たちは軍人の身分となった。代表チームの監督は、有力選手をこのクラブに集めさせ、ホンヴェードは1949-50年、1950年、1952年、1954年、1955年のシーズンにリーグを制した。彼は通算354試合で357ゴールを挙げた。
ハンガリー代表には、1945年8月20日のオーストリア戦でデビューし、5-2で勝ったこの試合で代表初ゴールも記録した。1952年のヘルシンキオリンピックでは、決勝でユーゴスラビアを2-0で破り、金メダルを獲得した。1953年11月、ロンドンのウェンブリーでのイングランド戦では、6-3で勝利し、彼は24分と27分にゴールを挙げた。イングランドにとって、ウェンブリーで海外のチームに敗れた初めての試合となった。
1954年のワールドカップでは、優勝候補の大本命だったが、西ドイツ戦の後半に右足を傷め、続く試合を欠場した。決勝で再び西ドイツと当たり、まだ万全ではない体で出場して、6分に先制点を挙げた。しかし試合は終盤に3-2で西ドイツが勝ち、ハンガリーの連続無敗記録は31試合で終わった。試合終了2分前の彼のゴールは、オフサイドと判定され、彼はこの判定を誤りだと考えていた。通算で、代表では85試合に出て84ゴールを挙げ、1956年10月14日のオーストリア戦が最後となった。
同年10月にハンガリー動乱が起こり、クラブの選手たちは帰国を拒んでスペインなどで試合を続けた。彼はハンガリーサッカー協会に18か月の出場停止処分を科され、のちに15か月に短縮された。1958年にレアル・マドリードに入ったとき、31歳で肥えていた彼を、現地の新聞は「太鼓腹の少佐」とからかった。しかし1959-60年のシーズンには26ゴールを挙げてスペインで初の得点王となり、1960年のチャンピオンズカップ決勝では、アイントラハト・フランクフルト相手に4ゴールを決めて、7-3の勝利に貢献した。
同じ年に亡くなった人物
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