伝記
ジェームス・ブラウンは、1933年5月3日に生まれ、2006年12月25日に没したアメリカ合衆国の歌手、作曲家、編曲家、音楽プロデューサーである。本名はジェームズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアといい、実際には1928年生まれとする説もある。ファンクを中心に、ブルース、ゴスペル、リズム・アンド・ブルース、ソウルなどの音楽性を持ち、シャウトを用いた歌と革新的なファンクの音で知られる。「ミスター・ダイナマイト」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」など、いくつものニックネームを持っていた。
サウスカロライナ州バーンウェルに生まれたと、本人は自伝などで書いている。一家は貧しく、ジョージア州オーガスタに移り住んだが、ブラウンは親類の家などで育てられた。幼いころは綿花摘みや靴磨きで生計を助けた。地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝するほどの歌唱力があったと、本人は回想している。15歳のときの車の窃盗について、16歳で成人として扱われ、反省すれば8年、反省しなければ16年という、差別的な有罪判決を下され、1948年から教護院に収容された。服役中にボビー・バードと知り合い、バードの家族は、釈放後の彼の生活を助けた。オーガスタに戻らず職を得るという条件で出所し、音楽に情熱を傾けるようになった。
1955年から、バードの妹サラとともにゴスペル・グループとして活動を始め、まもなくバードのグループに参加した。このグループはリズム・アンド・ブルースのバンドとなり、名を「フェイマス・フレイムズ」と変えて、オハイオ州シンシナティで、シド・ネーサンのキング・レコードと契約した。ネーサンは当初、ブラウンの歌を「こんなものは音楽でも何でもない」と評したが、ブラウンが説得して発表にこぎつけた。1956年に出たファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ」はチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしその後は、続く9枚のシングルが商業的に失敗し、レコード会社が契約解除を考えるほどになった。1958年の「トライ・ミー」がビルボードの48位の小ヒットとなり、活動を続けられた。曲のほとんどはブラウンが作り、バンドは彼が実質的なリーダーとなり、のちにソロ活動ではバックバンドとなっていった。
全国的な成功は、レコード会社の反対を押し切って出した『ライブ・アット・ジ・アポロ』(1962年)で訪れた。その後、最初のファンクの曲とされる1964年の「アウト・オブ・サイト」を皮切りに、1965年の「パパのニュー・バッグ」「アイ・フィール・グッド」など、一連の16ビートの曲を発表した。1967年ごろのバンドのドラマーは、「ファンキー・ドラマー」と呼ばれたクライド・スタブルフィールドで、「コールド・スウェット」は彼が叩いた傑作である。1968年4月4日にキング牧師が暗殺されると、翌日にボストンで予定されていたコンサートは、暴動を避けるため、市長らと相談して生中継されることになり、ボストンは大きなトラブルなしにその週末を終えられた。
1960年代末から1970年代初めに、彼は絶頂期を迎えた。1970年3月、給料をめぐるトラブルからメイシオ・パーカーらほぼ全員が脱退すると、バードにペースセッターズを連れてくるよう呼びかけ、ブーツィー・コリンズらの新しいバンドが「JBズ」と名付けられた。「セックス・マシーン」(1970年)、「スーパー・バッド」、「ソウル・パワー」(1971年)などがヒットし、1974年には「ファンキー大統領」を発表した。
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