伝記
ミルトン・フリードマンは、1912年7月31日にニューヨークで生まれたアメリカの経済学者である。ハンガリー王国東部、現在のウクライナ領のベレホヴェから来たユダヤ系移民の子だった。父は仲買人や労働者として働いたが定職がなく、家は非常に貧しかった。後年、福祉国家が成立する以前の移民たちは、親戚や民間の慈善団体以外の誰にも頼らず、自分の力だけで生きてきたと回想している。1歳のときにニュージャージー州のローウェーに移り、アンドリュー・カーネギーが建てた図書館に通って本を読みあさった。12歳までは熱心なユダヤ教徒だったが、13歳のころには完全な不可知論者になっていた。15歳のときに父が心臓発作で亡くなったが、同じ年に高校を卒業し、州の奨学金を得てラトガーズ大学に進んだ。ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を読んでリバタリアニズムの思想に触れた。
数学を専攻するつもりだったが、のちにFRB議長となるアーサー・バーンズや、ホーマー・ジョーンズの影響を受けた。世界恐慌の惨状を目にしたこともあり、ジョーンズの推薦でシカゴ大学の大学院に進み、1年で修士を取得した。そこでロイド・ミンツから貨幣数量説を教わり、ケインズの『貨幣改革論』に影響を受けた。コロンビア大学に移ってホテリングに師事し、1935年に連邦政府の国家資源委員会に就職して、個人所得と消費の全国調査を担当した。1937年にはバーンズの推薦で全米経済研究所に勤め、サイモン・クズネッツの助手として働いた。1938年にローズ・ディレクターと結婚し、一男一女をもうけた。1941年には財務省に入り、源泉徴収税制度の導入などに関わった。1943年に統計調査グループに移り、対空砲や原爆の起爆装置の設計にも関与し、逐次解析の開発に功績を残した。1946年にクズネッツとの共同研究で博士号を取り、同年にシカゴ大学の教授となった。第二次世界大戦が終わって連邦政府の職を離れるまでは、一貫してケインジアンの立場にあった。
1953年に「実証的経済学の方法論」を書き、同年に変動為替相場を擁護する論文を発表した。1955年には、公立学校に市場原理を導入して競争を促す教育バウチャー制度を提唱している。経済に与える貨幣供給量の役割を重視し、大恐慌の原因を中央銀行の不適切な金融引き締めに求めた。裁量的な財政政策に反対し、貨幣供給量を一定の割合で増やすことを主張した。シカゴ学派の指導者として多くの経済学者を育て、1951年にジョン・ベイツ・クラーク賞を受け、1967年にアメリカ経済学会の会長を務めた。1976年にノーベル経済学賞を受賞した。
1969年にニクソン政権の大統領経済諮問委員会で変動相場制を提案し、のちにニクソンとは決裂した。1975年のチリ訪問や、1980年からの中国訪問など世界各国で政策助言を行い、日本では1982年から1986年まで日本銀行の顧問を務めた。1986年に勲一等瑞宝章を受け、1988年にはアメリカ国家科学賞と大統領自由勲章を授与された。ピノチェト政権下のチリを支持したことなどから、新自由主義の筆頭として批判された。2006年11月16日、心臓疾患のためサンフランシスコの自宅で亡くなった。94歳だった。
同じ年に亡くなった人物
- シビル・ベッドフォード (2006年没)
- ロヨラ・デ・パラシオ (2006年没)
- ユイセ・レスキネン (2006年没)
- ジェラルド・リーヴ (2006年没)
- マルクス・ヴォルフ (2006年没)
同じ地域に関係する人物
- モーリス・マクローリン (1957年没)
- ジョン・ドエグ (1978年没)
- ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ (1989年没)
- マーシャ・ストラスマン (2014年没)
- ハーシェル・ベルナルディ (1986年没)