HISTORICAL PERSON · 2006年没

ピーター・ウィレム・ボータ

南アフリカ共和国の政治家。1978年から1984年まで首相、1984年から1989年まで大統領を務めた。アパルトヘイトの撤廃を求める国際世論に抵抗し、独裁者とも批判された。

生涯
2006年没
死亡地
南アフリカ共和国(西ケープ州)
出生地
南アフリカ共和国(オレンジ自由州)
出典
世界地図
南アフリカ共和国(西ケープ州)

伝記

ピーター・ウィレム・ボータは、1916年1月12日にオレンジ自由州のポール・ルーの小さな農場で生まれた南アフリカ共和国の政治家である。ボーア人の両親のもとに生まれ、父は第二次ボーア戦争でイギリス軍と戦った軍人で、母はイギリスの強制収容所に入れられた。保守的なアフリカーナーの家庭に育ち、カルヴァン派の教えとアフリカーナーの民族意識に強く影響を受けた。1934年にグレイ大学で法律を学び始めたが、20歳のときに中退し、政治家を志して、ケープ州の国民党の組織で働き始めた。1946年には、のちのアパルトヘイト政策を提言するサウアー委員会の一員となった。

第二次世界大戦中は、多くのアフリカーナーの民族主義者と同じくナチス・ドイツに共感を寄せ、「牛車の番人」を意味する極右団体に加わったが、独ソ戦が始まると1941年にこれを非難して、団体から追放された。1943年にエリザ夫人と結婚し、2人の息子と3人の娘をもうけた。1948年の選挙で国民党から立候補して当選し、40年以上にわたって議員を務めた。この選挙で国民党を中心とする連立政権が成立し、アパルトヘイト政策が本格的に推進されることになった。1958年に発足したフルウールト政権で副内相に就いた。1966年、フォルスター内閣で国防相になると、国連の武器禁輸のもとでも対外戦争に耐えられるよう軍需産業を強化し、南アフリカ防衛軍は他のアフリカ諸国より充実した軍隊となった。生物・化学兵器の開発や、核開発計画も推し進めたとされる。1975年からは、ソ連やキューバの支援するアンゴラの政権に対抗して、アンゴラ内戦に介入し、反政府勢力のアンゴラ全面独立民族同盟を支援した。

1978年9月にフォルスターが辞任すると、議会によって後継の首相に選ばれた。前任者より実利的で、ホームランドの自治を積極的に進めた。1984年に大統領に就任し、憲法を改正して首相職を廃止し、大統領の権限を強化した。同時に、白人、カラード、インド系による人種別の三院制議会に移行し、白人単独の支配体制を改めたが、黒人は除かれた。1985年には雑婚禁止法などを廃止したが、アパルトヘイトの基幹となる法律の撤廃は拒んだ。改革は国民党の穏健派にも保守派にも不満を呼んだ。1986年に黒人の暴動が全土に広がると非常事態を宣言し、軍と警察に取り締まりを命じ、アフリカ民族会議は抵抗した。収監中のネルソン・マンデラが会談を求めると、ボータは法務大臣に交渉を当たらせ、マンデラとの接触を初めて許可した南アフリカの指導者となった。1988年には、キューバ軍のアンゴラ撤退とナミビアの独立承認を交換条件とする停戦に合意し、南アフリカ軍を引き上げた。

1989年7月、ケープタウンで初めてマンデラと対面した。翌8月に大統領を辞任し、後継者はデクラークとなった。アパルトヘイト崩壊後の真実和解委員会での証言は最後まで拒み、自らの持論を改めることはなかった。委員会は重大な人権侵害の責任があると認定した。その一方で、マンデラとは個人的に友好な関係を築いていたとされる。2006年10月31日、西ケープ州の自宅で90歳で死去した。マンデラは、多くの人がボータをアパルトヘイトの象徴と思い続けるだろうが、彼が最終的に平和的な和解交渉を選んだ決断を記憶していると追悼した。国葬は遺族が拒んだが、葬儀にはムベキ大統領も出席した。

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