伝記
アイク・ターナーは、本名をアイズィアー・ラスター・ターナー・ジュニアといい、1931年11月5日、ミシシッピ州クラークスデイルに生まれたアメリカ合衆国のミュージシャンである。父はバプテスト派の牧師、母ビアトリス・クシェンベリーはお針子で、二人ともクレオールだった。約10歳年上の姉リー・エセルがいる。父は彼が5歳ごろに亡くなったが、その経緯について本人は、白人の男に殴られて死にかけた状態で放置され、2、3年のあいだ寝たきりで過ごしたのち死んだと語っていた。ただ、彼の話はそのまま受け取らず、割り引いて聞く必要があるとも評される。母は画家のフィリップ・リースと再婚したが、彼は継父を暴力的な酒飲みだと言い、殴られた日に材木で相手を倒して、数日メンフィスへ逃げた。母が1959年に亡くなったあとも、彼は継父を自宅に引き取り、亡くなるまで世話をしたという。
小学校のあと8年生で学校をやめ、クラークスデイルのホテルでエレベーター係として働いた。ホテルには地元のラジオ局があり、休憩時間にディスクジョッキーの仕事を眺めていると、ジョッキーに見つかって、操作室の仕事を教わった。やがてレコードをかける役を任され、10代のころには自分でも放送に出るようになった。ここでロバート・ナイトホークらブルースの演奏家と出会い、パイントップ・パーキンスから直接ピアノを教わった。1940年代後半に自分のバンド、キングス・オブ・リズムを結成した。
1951年3月、ジャッキー・ブレンストンを歌手に立て、メンフィスのサン・スタジオで「ロケット88」を録音した。この録音はシカゴのチェス・レコードから、ブレンストンとデルタ・キャッツの名義で発売され、リズム・アンド・ブルースのチャートで1位の大ヒットとなった。ロックンロールの最初の曲の有力な候補とされる。1950年代には独学でギターを覚え、レコード会社のスカウトや制作者としても活躍して、B・B・キングやハウリン・ウルフらの初期の経歴に重要な役割を果たしたとされる。1954年にはイースト・セントルイスに移った。自分のファンだったアンナ・メイ・ブロックが、彼のバンドで歌いたいと言い出した時、初めは断ったが、懇願に負けて歌わせた。二人は1960年に結婚し、アイク&ティナ・ターナー・レヴューの名で活動して、1960年代から70年代にかけてヒットを飛ばした。1966年から1969年にはローリング・ストーンズのアメリカ公演の前座も務めた。1970年12月には初来日し、東京・赤坂のライブハウスで計12回の公演を行った。
しかし1978年に二人は離婚し、デュオも解消した。ティナは1986年の自伝で、アイクの家庭内暴力を明かした。彼は当初否定していたが、2001年の自伝で事実上自らの暴力を認めた。長年コカインに依存し、1980年代初めには薬物の罪でカリフォルニア州の刑務所に服役した。1991年にアイク&ティナ・ターナー名義でロックの殿堂入りを果たしたが、2003年に日本のブルース・カーニバルに出るため来日した際には、過去のコカイン所持による逮捕歴が問題とされ、入国を許されず帰国した。晩年の2001年と2006年には、ブルースに立ち返った作品で再評価された。2007年12月12日、カリフォルニア州サンマーコスの自宅で、76歳で亡くなった。薬物の過剰摂取によるとも伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ロータル=ギュンター・ブーフハイム (2007年没)
- ビヴァリー・シルズ (2007年没)
- Juan Valdivieso (2007年没)
- ミシェリーヌ・ベルトラン (2007年没)
- Miklos Pancsics (2007年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョセフ・ケラー (2016年没)
- ダニー・ケイ (1987年没)
- アリス・ゴーストリー (2007年没)
- ゴードン・ダグラス (1993年没)
- ロニー・モントローズ (2012年没)