伝記
ポール・クリスティアン・ラウターバーは、1929年5月6日にオハイオ州シドニーで生まれたアメリカ合衆国の化学者である。ルクセンブルク系の家の出で、シドニー高校を卒業した。十代のころには、両親の家の地下室に自分の実験室を作っていた。化学の教師は、彼が一人で実験を楽しむことを理解し、教室の後ろで自分の実験をするのを許したという。のちに無神論者になった。
1951年にケース工科大学で化学の学士号を得て、ダウ・コーニングのメロン研究所の研究室に入社した。1953年にアメリカ陸軍に徴兵され、メリーランド州エッジウッドの陸軍化学センターに配属された。ここで、上官の許しを得て、初期の核磁気共鳴(NMR)の装置の研究に時間を使い、陸軍を離れるまでに四つの科学論文を発表した。その後、メロン研究所に戻って働きながら、ピッツバーグ大学の大学院で化学を学び、1962年に博士号を取得した。翌年にニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の准教授となり、1985年までそこで教えて、磁気共鳴画像法(MRI)の開発につながる研究を行った。1969年から1970年の学年には、スタンフォード大学の客員教員として、地元の企業ヴァリアン・アソシエイツなどの協力を受け、NMRの研究に取り組んだ。
MRIの着想は、ピッツバーグ郊外のレストランで、ふとひらめいたことに由来すると本人は語っている。最初の模型は、ピッツバーグ大学の学生であり、メロン研究所の研究者でもあったころ、テーブルのナプキンに走り書きされた。1952年のノーベル物理学賞は、核磁気共鳴の開発でフェリックス・ブロッホとエドワード・パーセルに贈られたが、その後数十年、磁気共鳴は主に物質の化学構造を調べるのに使われていた。1970年代にラウターバーとピーター・マンスフィールドの開発が進んで初めて、NMRで体の画像が作れるようになった。ラウターバーは、磁場に勾配をつけることで、調べる対象の原子核が出す電波の出どころが分かるという考えを用いて、二次元と三次元の最初の画像を作った。大学で一番性能の良いNMRの装置は化学科のもので、彼は夜に使い、帰るときには設定を化学者たちのものに慎重に戻した。
最初の画像には、娘が海岸で拾った直径4ミリの二枚貝や、ピーマン、普通の水を入れたビーカーの中の重水の二本の試験管が含まれていた。当時、二種類の水を区別できる画像法は他になく、人体の大部分が水でできていることを考えると、この成果は重要だった。論文を最初にネイチャー誌へ送ったときは掲載を断られたが、再検討を求め、のちに掲載されて、今では古典的な論文と認められている。
1985年からはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の教授となり、妻のジョーン・ドーソンとともに、生体磁気共鳴研究所を設立した。学部生と研究を続け、化学の教授として、生物工学や生物物理学などの任にもあたった。1983年にハワード・N・ポッツ・メダル、1985年にガードナー国際賞、1987年にアメリカ国家科学賞、1994年に京都賞を受けた。2003年にはマンスフィールドとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。2007年3月27日、イリノイ州アーバナで77歳で没した。
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