伝記
ジェームズ1世は、1566年6月19日、スコットランド女王メアリーと2番目の夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子として、エディンバラ城で生まれた。名付け親はイングランド女王エリザベス1世である。誕生後まもなくロスシー公に叙され、スコットランド王位継承者とされた。母方の祖父ジェームズ5世がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの息子であったことから、イングランド王位の有力な継承権者でもあった。1567年2月に父が不審な死を遂げ、母は疑われたボスウェル伯と再婚して貴族の怒りを買い、7月に廃位された。ジェームズはその5日後に1歳1か月で即位し、スコットランド王ジェームズ6世となった。母は翌1568年にイングランドへ亡命し、1587年に処刑されるまで、息子と会うことはなかった。
即位後は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執らなかった。最初の摂政の伯父マリ伯は1570年に暗殺され、二人目の祖父マシュー・ステュアートは1571年に殺害され、マー伯は1572年に死去し、最後にモートン伯が摂政となった。家庭教師のブキャナンとヤングから語学・歴史・天文学・数学などを学び、語学に堪能で博学を誇る君主へと成長した。ブキャナンには短気で体罰も多いことから恐れを抱く一方、優しいヤングを気に入り、のち結婚のためデンマークへ派遣する使者に選んでいる。1579年に成人の統治者となる式典が行われ、同年、13歳の王はフランス帰りのオウビーニュイ卿エズメ・ステュアートに魅了され、寵愛した。1581年にモートン伯は処刑されたが、寵臣政治は貴族の反発を招き、1582年8月にガウリ伯の計略で誘拐され軟禁された。1583年6月に脱走し、1584年にガウリ伯を処刑して直接統治に乗り出した。宗教問題では、同年5月に暗黒法を発布して国王の最高権威と司教制を謳ったが、信徒の反発は強く、1592年には黄金法で集会を認め、1598年には司教議員を認めた。
1586年にイングランドと同盟を結び、エリザベス1世は、挑発しなければ王位継承権を認めると約束して年金も支給した。1587年に母が処刑されたときは、形式的な抗議だけで黙認し、1588年に女王に忠誠を誓った。1589年にデンマーク・ノルウェー王フレゼリク2世の娘アンナと結婚し、デンマークでティコ・ブラーエと会った。1590年に乗船が嵐で沈没寸前になると、王の暗殺を図る黒魔術だとして70人の女性が逮捕される魔女狩りの騒動が起こり、王自ら参加して、のち著書『悪魔学』に記した。また『自由なる君主国の真の法』で王権神授説を唱え、1599年には長男ヘンリー・フレデリックに向けた形で君主論を著した。
1603年3月24日にエリザベス1世が崩御すると、ジェームズ6世は4月にエディンバラを出発し、ロンドンで熱狂的な歓迎を受け、7月25日に戴冠してイングランド王ジェームズ1世となった。これがイングランドにおけるステュアート朝の始まりで、以後1707年にグレートブリテン王国となるまで、両国は共通の国王と異なる議会を持つ同君連合をとった。ロンドンの宮廷生活に満足し、スコットランドへ帰ったのは一度だけであった。即位直後の陰謀事件に連座したウォルター・ローリーは投獄され、1616年に南米ギアナの黄金を当てに出発を許されたが、黄金は見つからなかった。1625年3月27日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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