HISTORICAL PERSON · 1626年没

フランシス・ベーコン (哲学者)

イギリス経験主義の祖とされる哲学者・政治家。「知識は力なり」の言葉や、偏見を分類した「イドラ」の概念で知られる。

生涯
1626年没
死亡地
イギリス連邦(ハーリンゲイ区 / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(ヨーク・ハウス)
出典
世界地図
イギリス連邦(ハーリンゲイ区)

伝記

フランシス・ベーコンは、1561年1月22日、サー・ニコラス・ベーコンとその妻アンの息子として、ロンドンのストランドに生まれた。父はエリザベス朝最初の大法官であり、母は女王の側近ウィリアム・セシルの妻の妹で、のちのソールズベリー伯ロバート・セシルは母方の従弟に当たる。母から熱心なプロテスタントとしての教育を受け、自然に囲まれた屋敷で暮らすうち、自然界への興味に目覚めた。1573年4月、兄アンソニーとともにケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学し、学寮長のジョン・ホイットギフトから、確かな証拠に基づかない議論をしない姿勢の影響を受けた。アリストテレスの哲学は、議論や論争に優れるだけで人間の生活に役立つ成果をほとんど生まないとして嫌うようになり、学位は取らずに1575年12月に大学を去った。

1576年にグレイ法曹院で法律を学び、9月には駐仏大使に同行してパリからフランス各地を巡り、ユグノー戦争で荒廃した国情や科学から刺激を受けた。1579年に父がわずかな遺産を残して急死したため帰国し、兄弟で分けた遺産はごくわずかで、金銭感覚に乏しい浪費家であったこともあり、借金生活に苦しんだ。生活のため法律家の道を歩み、1582年に法廷弁護士の資格を取り、1586年にグレイ法曹院の幹部員となった。コーンウォールなどから選出されて庶民院議員となり、国王秘書長官ウォルシンガムの諜報活動に加わって重用された。1580年代から著作も始め、教会の論争を戒める文書などを書いた。

しかし後ろ盾のはずのバーリー男爵は、息子ロバート・セシルの競争相手になることを恐れて兄弟を支えず、ベーコンは1591年以来エセックス伯ロバート・デヴァルーの顧問となった。1593年の議会では、女王が特別税を求めた際、法の再編纂を論じ、特別税の支払い期間を6年とするよう提案して審議を伸ばしたため、女王の怒りを買い、宮廷から遠ざけられた。1594年の法務長官の座は、エセックス伯の推薦にもかかわらずコークに敗れた。1596年に特命の学識顧問官となったものの報酬はなく、エセックス伯から所領の贈与を受けるほど苦しかった。エセックス伯が女王と対立すると諫めたが、1601年2月に伯が反乱を起こして失敗すると、コークとともに訴追側に立った。この行為は、伯への裏切りと受け取られ、晩年の失脚と合わせて評判が悪い。一方で、伯の好戦的な姿勢が女王に危険視されていることに気づき、事前に諫言し、没落後も女王との間を取り持とうとしたことや、参加が女王の命令だったとする擁護論もある。

1603年3月にエリザベス1世が崩御し、ジェームズ1世が即位すると、7月にナイトに叙され、1604年に特命の学識顧問官となった。1605年に『学問の進歩』を出版した。イングランドとスコットランドの統合を支持し、統合検討委員会の委員となったが、議会の反対で統合は実現しなかった。1606年にはロンドン市参事会員の娘アリス・バーナムと結婚し、その持参金で財政は改善した。子はなく、結婚生活は上手くいかなかったことが示唆されている。1607年に法務次官となって以後、順調に昇進し、1613年に法務長官、1616年に枢密顧問官、1617年に国璽尚書、1618年に大法官となってヴェルラム男爵に叙され、1621年にセント・オールバンズ子爵に叙された。1626年4月9日に没した。

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