伝記
イヴ・サン=ローランは、1936年8月1日にフランス領アルジェリアのオランで、3人きょうだいの長男として生まれたファッションデザイナーである。フランス人入植者の一族で、父は保険会社を経営し、映画館のチェーンも持っていたため、裕福な家庭に育った。厳格なカトリックの学校では、女性的だという理由でいじめられ、殴られた。ある芝居の舞台装置と衣装に感銘を受けると、自分も小さな劇場を作り、地元のダンス教室の衣装を手がけ始めた。13歳のころには本を書き写して挿絵を添え、3歳のころから母の服装が気に入らないと不機嫌になるほど、服には早くから関心があった。
1953年、17歳のとき、パリで国際羊毛事務局が主催した若手デザイナーのコンクールに3枚のスケッチを出し、ドレス部門で3位に入った。翌年に再び挑戦して1位となり、ドレスはユベール・ド・ジバンシィのクチュールで縫製された。この時、コート部門の1位は、のちにシャネルのデザイナーとなるカール・ラガーフェルドだった。ヴォーグ誌の編集長ミシェル・ド・ブリュノフに勧められてパリの服飾学校に入り、1955年に首席で卒業した。ブリュノフは彼のスケッチがクリスチャン・ディオールの新作と同じAラインを描いているのに驚き、すぐに本人に紹介した。1955年6月、ディオールは彼をその場で採用し、母親に、あなたの息子を立派に成功させるために雇ったと語った。
初めの1年間はアクセサリーのデザインとスケッチの提出に過ごした。1957年にディオールが死去すると、21歳の若さで主任デザイナーを任された。1958年1月の最初のコレクションで、従来より広く短く、裾がちょうど膝を覆う「トラペーズ(台形)ライン」を発表し、熱狂的な絶賛を受けた。新聞は号外を出して「サンローランはパリを救った」と見出しを打ち、彼は21歳で国民的英雄となった。同じ年には、ニューヨーク・タイムズ紙が、フランスの若き文化の旗手5人の一人に数えている。ところが1960年、アルジェリア独立戦争のため徴兵されると、20日後に軍隊内のいじめの影響でストレスを被り、神経衰弱で精神科の施設に収容され、電気ショック療法を含む治療を受けた。後年、薬物依存や鬱の起源は、これらの体験にあると語っている。
1961年11月、神経衰弱を理由にディオールから解雇されたが、恋人でビジネスパートナーのピエール・ベルジェの協力で、自身のオートクチュールのメゾンを創設した。1966年にはプレタポルテのラインを発表してパリにブティックを開き、女優のカトリーヌ・ドヌーヴをミューズの一人とした。1967年には、ドヌーヴが出演した映画『昼顔』の衣装も手がけている。1989年にはファッションブランドとして初めてパリ証券取引所に上場し、1999年にはプレタポルテとビューティーのラインをグッチグループに売却した。ナオミ・キャンベルは、ヴォーグ誌の表紙になれないと彼に話すと「僕にまかせておいて」と答えてくれ、後日、黒人モデルとして初めて仏版の表紙を飾ったと明かしている。
2001年にシラク大統領からレジオンドヌール勲章コマンドゥールを授与され、2002年1月22日のオートクチュールのコレクションを最後に引退した。その後はモロッコのマラケシュの自宅で多くの時間を過ごした。2007年12月にはサルコジ大統領からグラントフィシエを授けられた。2008年6月1日、癌のため71歳で亡くなり、告別式にはドヌーヴやサルコジ夫妻ら800人が参列した。遺灰はマラケシュに撒かれた。
同じ年に亡くなった人物
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- Saukam Khoy (2008年没)
- ランディ・パウシュ (2008年没)
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- ウィリアム・ギブスン (劇作家) (2008年没)
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