HISTORICAL PERSON · 2008年没

エメ・セゼール

フランス領マルティニーク出身の詩人、政治家。『帰郷ノート』『植民地主義論』を著し、ネグリチュード運動を牽引して植民地主義を批判した。

生涯
2008年没
死亡地
フランス共和国(マルティニーク / フォール=ド=フランス)
出生地
フランス共和国(バス=ポワント)
出典
世界地図
フランス共和国(マルティニーク)

伝記

エメ・フェルナン・ダヴィッド・セゼールは、1913年6月26日、フランスの植民地だったカリブ海の小アンティル諸島、マルティニーク島に生まれた詩人、評論家、劇作家、政治家である。アフリカ系の父と、お針子だった母エレオノール・エレミーヌの間に、7人の子供がいた。父は行政官などを経て、試験を通り税務署の監査員となった。父方の祖父フェルナン・セゼールは、高等師範学校を卒業してリセの文学教師となり、マルティニークで最初の黒人の小学校教師になった人物である。祖母は、同世代の多くの女性と違って読み書きができたため、孫たちに早くから教育を施すことができた。

1931年、成績優秀であったため奨学金を得てフランス本土へ渡り、パリのリセ・ルイ=ル=グランに入学した。1934年にレオポール・サンゴールらとともに学生新聞『黒人学生』を創刊し、ここで「ネグリチュード」という言葉を初めて使った。1935年に高等師範学校に合格したが、精神的、肉体的な不調に見舞われはじめ、翌年から長詩『帰郷ノート』を書きはじめた。1937年にマルティニーク出身の留学生シュザンヌ・ルーシィと結婚した。教授資格試験に失敗し、『帰郷ノート』を発表したのち、1939年にマルティニークへ帰郷して、母校の高等中学校で文学を教えた。教え子にはフランツ・ファノンがいる。

1941年、妻らとともに文芸雑誌『熱帯』を創刊した。この年、パリの陥落によってマルセイユからニューヨークへ亡命する途中の、シュルレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンと出会った。ブルトンの乗った船はマルティニークに強制寄港させられたもので、出会いは偶然だった。同じ船には、クロード・レヴィ=ストロースやヴィクトル・セルジュも乗っていた。ブルトンは『帰郷ノート』を絶賛し、次の詩集『奇跡の武器』に序文を寄せた。『熱帯』は一時、検閲で発禁となったが、ド・ゴール派の総督が就任して再び発行を認められ、セゼールと雑誌はニューヨークなどで評判を呼んだ。

終戦後の1945年、フランス共産党から立候補して、島の首府フォール・ド・フランスの市長に当選し、2001年に引退するまでその職にあった。同時に国民議会議員にも選ばれた。翌年にはマルティニークの海外県化法案を起草し、法案は成立して島民の多くに歓迎された。県化法は同化法とも呼ばれたが、彼は植民地からの解放として制度的な同化を肯定しつつ、従属や文化的な同化は拒んだ。この経験をもとに、1950年に『植民地主義論』を発表している。1956年には、ハンガリー動乱でのフランス共産党のソ連への追従を契機に離党し、書記長に宛てた体裁の『モーリス・トレーズへの手紙』を書いた。1958年に自らの政党マルティニーク進歩党を立ち上げ、1993年に引退するまで、島の代表として国民議会議員を務めた。戯曲に『クリストフ王の悲劇』『コンゴの一季節』などがある。

市長を退いたあとも島に大きな影響力を保ち、島を訪れる重要人物には政治色にかかわらず面会するのを習慣としていた。2006年には、植民地主義を肯定する教育に与党が取り組んでいることなどを理由に、当時の内相サルコジの面会要請を拒み、サルコジは島の訪問を取りやめた。2007年1月、空港は「エメ・セゼール・マルティニーク国際空港」と改名された。2008年4月17日に亡くなり、フランスでは国葬が営まれ、サルコジ大統領も出席した。

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