伝記
イェルク・ハイダーは、1950年1月26日にオーストリアのオーバーエスターライヒ州バートゴイゼルで生まれた政治家である。父ロベルトは靴職人で、十代のうちにオーストリア・ナチ党に入った人物とされ、母ドロテア・ルップは教師で、ドイツ少女団の指導者を務めていた。戦後、両親は非ナチ化の審査を受けて軽度の関与と分類されたが、父は靴工場で働き、母は数年間教壇に立つことを禁じられた。家計は豊かではなかったものの、ハイダーは小学校でも、通ったバートイシュルの高校でも優秀な成績を収めたという。高校時代には右派の学生組織ブルシェンシャフトと接点を持った。
1968年に最優等で卒業すると兵役に就き、規定より長く務めて1969年に除隊した。ウィーン大学で法学と政治学を学び、1973年に法学博士の称号を得ている。在学中は別のブルシェンシャフトにも所属し、1974年からは同大学法学部の憲法学の部門で働いた。1976年にクラウディア・ホフマンと結婚して二人の娘をもうけ、同じ年、自由党ナショナル派の拠点だったケルンテン州に移った。1979年から国民議会議員となり、1983年以降は自由党のケルンテン州党首を務めた。この1983年には、血縁のないウィルヘルム・ヴェプホーファーからケルンテン州の広大な土地「ベーレンタール」を相続して裕福になった。この土地は1941年までイタリア系ユダヤ人の所有で、その来歴は1990年代にオーストリアの報道で取り上げられた。
1986年9月の党大会で現職党首を破って自由党の新党首に選ばれると、党内の有力者やリベラル派を排除し、党を事実上の「ハイダー党」に作り替えた。党の政策は公的部門の民営化を強調する新保守主義の路線で、本人は移民への厳しい態度で知られ、ナチスの政策を賞賛する発言でたびたび物議を醸した。1999年の総選挙では選挙前の分裂にもかかわらず自由党を第2党へ躍進させ、オーストリア国民党との連立政権が成立した。しかし自由党の政権入りに他の欧州諸国が猛反発して制裁に踏み切ったため、混乱の責任を取って2000年に党首を辞任した。その後は国政から遠ざかったが、2005年4月に党内の対立を理由に離党し、新党オーストリア未来同盟を結成してその党首となった。2008年9月の総選挙では得票率11%、21議席と大きく伸ばし、かつて所属した自由党と合わせて3割の議席を得た。
それからわずか13日後の2008年10月11日、ハイダーは母の誕生日パーティーへ公用車で向かう途中、クラーゲンフルト近郊で交通事故により急死した。58歳であった。連邦警察の調査では、血中アルコール濃度は法定限度の3倍以上、速度は法定速度の2倍を超える時速142kmだったとされる。普段は酒をあまり飲まなかったため、一部のメディアから暗殺説も出たが、事故の直前にバーで飲酒していたことが明らかになり、事件性はないと結論づけられた。現職の州首相の死であったため、葬儀は州葬として営まれた。没後の2010年には、約4,500万ユーロの資産をリヒテンシュタインの銀行口座に隠し持っていたことや、イラクのサッダーム・フセインとリビアのカダフィから送金を受けたと記す日記が見つかったことが報じられた。
同じ年に亡くなった人物
- Karoly Nemeth (2008年没)
- トマス・M・ディッシュ (2008年没)
- マヌエル・マルランダ (2008年没)
- ヤンウィレム・ヴァン・デ・ウェテリンク (2008年没)
- ジミー・スチュアート (2008年没)
同じ地域に関係する人物
- スヴェトザル・ボロイェヴィッチ (1920年没)
- Christine Lavant (1973年没)
- マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1738-1789) (1789年没)
- マリア・シェル (2005年没)
- フランツ・ザーフェル・フォン・ヴュルフェン (1805年没)