伝記
ジョン・アーチボルド・ホイーラーは、1911年7月9日にフロリダ州ジャクソンビルで生まれたアメリカ合衆国の理論物理学者である。図書館員だった父ジョゼフと母メイブルの四人の子の長男で、弟のジョゼフは博士号と図書館学の修士号を、ロバートは地質学の博士号を取り、妹のメアリーも図書館員になった。一家はオハイオ州ヤングスタウンで育ち、1921年から翌年にかけては、ヴァーモント州ベンソンの農場で暮らして、一教室だけの学校に通った。1926年にボルチモア・シティ・カレッジ高校を卒業すると、メリーランド州の奨学金を得て、ジョンズ・ホプキンズ大学に進んだ。国立標準局での夏のアルバイトの成果で、1930年に最初の科学論文を発表している。1933年、21歳で、カール・ヘルツフェルトの指導のもと、ヘリウムの分散と吸収の理論に関する論文で博士号を取得した。
全米研究評議会の奨学金で、1933年から翌年はニューヨーク大学のグレゴリー・ブライトのもとで学び、1934年から翌年はコペンハーゲンでニールス・ボーアに師事した。1934年の論文では、ブライトとともに、光子が電子と陽電子の対という物質に変わりうる過程を示した。これは現在、ブライト・ホイーラー過程と呼ばれる。1937年には、ノースカロライナ大学チャペルヒル校の准教授となったが、素粒子物理の専門家とより近くで研究したいと考え、1938年にはジョンズ・ホプキンズ大学の准教授の誘いを断り、格は低くてもプリンストン大学の助教授の職を選んだ。物理学科を強化しつつあったプリンストンのほうが、将来のためによいと考えたのである。1939年にはボーアと、液滴模型を用いて核分裂の仕組みを説明する一連の論文を書いた。
第二次世界大戦中は、マンハッタン計画に参加し、シカゴの冶金研究所で原子炉の設計を助け、のちにはワシントン州ハンフォードで、デュポン社の原子炉建設を手伝った。戦後はプリンストンに戻ったが、1950年代の初めには再び政府の仕事に就き、水爆の設計と製造に加わった。エドワード・テラーとともに、熱核兵器を推進した主な民間人だった。1947年に教授となり、1976年までプリンストンに在職した。ここで46人の博士課程の学生を指導し、これは他のどの物理学教授よりも多かった。
アルベルト・アインシュタインの共同研究者として、統一場理論の構築にも取り組んだ。一般相対性理論と量子重力理論で多くの業績を残し、第二次世界大戦後のアメリカで、一般相対性理論への関心を復活させた立役者とされる。1960年代には、中性子星と重力崩壊の理論的な分析を行い、相対論的天体物理学の先駆者となった。宇宙の波動関数を記述する「ホイーラー・ドウィット方程式」は、量子重力研究の先駆的な成果の一つである。「ブラックホール」という言葉を広く定着させ、ワームホール、量子泡、中性子減速材などの言葉をつくったことでも知られる。「情報からの存在」という考えも唱え、宇宙に電子は一つしかないという仮説も立てた。スティーヴン・ホーキングは、彼を「ブラックホールの物語の英雄」と呼んだ。
65歳でプリンストンを離れ、1976年にテキサス大学オースティン校の理論物理学センターの所長となり、1986年に退職して名誉教授になった。キップ・ソーンやチャールズ・ミスナーとともに、一般相対性理論の教科書『重力』を書いた。1969年にフランクリン・メダル、1970年にアメリカ国家科学賞、1997年にウルフ賞を受けた。2008年4月13日に亡くなった。
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