伝記
ジャハーンギールは、1569年8月31日にアジュメールで生まれ、1627年に没したムガル帝国の第4代皇帝(在位1605年から1627年)である。父は第3代皇帝アクバル、母はラージプートの王の娘マリヤム・ウッザマーニー・ベーグムで、本名はヌールッディーン・ムハンマド・サリームという。
アクバルには娘しかおらず、後継ぎの男子に恵まれないことを悩んでいた。1568年にファテープル・シークリーで聖者サリーム・チシュティーに悩みを打ち明けると、寵愛する妃が後継者を産み、男子は3人になるだろうと予言されたという。翌1569年に男子が生まれ、アクバルは聖者の住居の近くで出産させて感謝を表し、聖者にちなんでサリームと名づけた。のちに弟のムラードとダーニヤールも生まれている。
サリームは継母サリーマや祖母ハミーダに可愛がられたが、父からは甘やかされず、アクバル自らの監督で育てられた。12歳になると軍の指揮や行政を実地で経験し、文武両道を示したが、青年期から父との仲は悪かった。弟たちが早世や病気で倒れ、唯一の後継者となったころには、飲酒癖とアヘン中毒で体を蝕まれていたとされ、歴史家のロビンソンは、これが公然の反抗の原因だと推測している。1600年にベンガルでのアフガン人の反乱鎮圧を命じられたが、本拠のアラーハーバードにとどまり、挙兵した。1601年5月には3万の騎兵を率いてアーグラへ向かったが、父の命令で引き返した。1602年には金曜礼拝のフトバで自らの名を唱えさせ、名を刻んだ硬貨を鋳造して父に送りつけた。
アクバルは友人の歴史家アブル・ファズルを派遣したが、サリームはその影響力を恐れ、家臣のヴィール・シングに、通過する際の殺害を命じ、8月に実行された。アクバルは怒りのあまり3日間居室に閉じこもったが、結局この殺害を許した。祖母や継母が仲介に努め、1604年に継母の説得に応じたサリームはアーグラへ戻った。宮廷に現れると、いきなり父に平手打ちを受け、医師の監督下に置かれた。フスローを皇帝に立てようとする動きもあったが、多数の貴族がチャガタイの法と慣習に反するとして反対し、支持者は敗れた。1605年10月21日、病の重いアクバルはサリームを後継者に指名し、25日に世を去った。3日後の10月28日、サリームは帝位を宣言した。
即位後、オスマン帝国の皇帝セリムと同名であることに気づき、「世界の支配者」、あるいは「世界を征服する者」を意味するジャハーンギールを名乗った。父の宗教的寛容策を引き継ぎ、牛の屠殺を禁じ、父と同じくカトリックに関心を抱き、ヨーガの行者にも帰依した。外交ではポルトガルに加え、イギリス東インド会社の帝国内での活動も許可した。一方で1606年には、長男フスローの反乱を支援したとして、シク教の第5代教主アルジュンを処刑した。1611年にイティマード・ウッダウラの娘ヌール・ジャハーンと結婚し、三男フッラムは、彼女の弟アーサフ・ハーンの娘ムムターズ・マハルと結ばれた。ヌール・ジャハーンとその兄が政治を取り仕切ったとされ、皇帝は病弱で自堕落な無能な君主とみられることも多いが、研究者の間でも議論が続く。メーワールは1614年に服属し、ラージャスターン全域が帝国領となったが、デカンではマリク・アンバルにアフマドナガルなどの領土を奪還された。自伝『トゥーズキ・ジャハーンギーリー』を著した。晩年は皇子らが帝位を争い、勝ち残ったシャー・ジャハーンが1628年に即位した。
同じ年に亡くなった人物
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