伝記
ヨハネス・ケプラーは、1571年12月27日に神聖ローマ帝国の自由都市ヴァイル・デア・シュタットで生まれ、1630年11月15日に没したドイツの天文学者である。惑星の運行に関する「ケプラーの法則」を唱えたことで知られ、天体の運動を理論的に説明した点で、天体物理学者の先駆けともいえる。数学者、自然哲学者、占星術師でもあった。
父ハインリヒは居酒屋を営み、母カタリーナは宿屋の娘で、薬草で人を治療する治療師だった。父方の祖父は市長も務めた下級貴族であったが、家は貧しく、ヨハネスの生まれた時点で家計は傾きつつあった。収入を得るため父が傭兵となり、家を離れたのは彼が5歳のときで、父はヨハネスが17歳のときに、八十年戦争中のネーデルラントで亡くなったと考えられている。4歳で天然痘にかかって視力が落ち、手も多少不自由になった。一家はプロテスタントで、当時の宗教的対立は苦難の一因ともなった。
ラテン語学校からプロテスタント系の神学校へ進み、貧しさから奨学金で通った。1587年、聖職者を志してテュービンゲン大学の神学科の給費生試験に合格し、哲学と神学を学び、新プラトン主義に傾倒した。ここで教師ミヒャエル・メストリンの天文学の講義に出会い、プトレマイオスとコペルニクスの宇宙体系をともに学んで、後者に傾倒していった。数学の成績は優秀で、仲間のためにホロスコープを作って天文学の腕も評判になった。本当は牧師を望んでいたが、示されたのはグラーツの学校で数学と天文学を教える職で、23歳のときに受諾した。
1594年からグラーツで教え、1596年に、太陽を中心に六つの惑星が五つの正多面体に順に外接・内接して距離が保たれるとする書を出し、コペルニクスの地動説を天文学者として初めて全面的に支持した。これを読んだガリレオ・ガリレイは、支持する旨の手紙を送った。1597年にバーバラ・ミューラーと結婚したが、翌年、大公フェルディナント2世がプロテスタントの聖職者と教師の退去を命じ、失職した。
1599年、ティコ・ブラーエに共同研究者としてプラハに招かれた。ティコは肉眼で最高の精度の観測を続けた大観測家で、自らは地動説を支持する証拠を見つけられず、修正した地球中心説を唱えていた。1601年にティコが亡くなると、臨終の遺言で観測資料の整理を託された。ケプラーは後任の宮廷付占星術師としてルドルフ2世に仕え、そのデータで研究を続けた。観測データの代金をめぐり、ティコの遺族とは争いになった。1609年に代表作となる論文を刊行し、第1と第2の法則を収めた。惑星の運動を円でなく楕円とみなしたもので、火星の精密なデータがそれを導いた。
1611年、子の一人と妻バルバラが死去し、1612年にルドルフ2世が亡くなるとリンツへ移って州の数学官となった。1613年にズザナ・ロイティンガーと再婚し、1619年に『宇宙の調和』で第三法則を発表した。1620年から1621年には母が魔女裁判にかけられ、故郷にとどまって弁護に奔走し、無罪を勝ち取った。その後リンツが反乱軍に被害を受けてウルムへ移り、1627年に、楕円軌道の法則に基づくルドルフ表を完成した。1604年の超新星を観測し、のちにハレー彗星と呼ばれる1607年の彗星も記録した。球を最も密に敷き詰める配置の予想も残し、これは1998年にコンピュータを使って証明された。地動説を認めないカトリック教会は、彼の学術書をすべて禁書目録に指定した。1630年、レーゲンスブルクで病死した。
同じ年に亡くなった人物
- フェーデ・ガリツィア (1630年没)
- アレッサンドロ・ストリッジョ (1630年没)
- 山田長政 (1630年没)
- ダリオ・カステッロ (1630年没)
- サラモーネ・ロッシ (1630年代没)
同じ地域に関係する人物
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- オットー2世 (バイエルン公) (1253年没)
- ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン (1965年没)
- ヨーゼフ・フィッシャー (1953年没)
- Andreas Kupfer (2001年没)