伝記
金大中は、1924年1月6日に全羅南道の荷衣島で生まれた韓国の政治家で、第15代大統領を務めた人物である。戸籍上の出生日は別の日付になっている。1936年に家族とともに木浦へ移り、木浦商業学校を卒業した。のち、木浦日報や海運会社の経営を経て、1954年の総選挙で初めて国会議員に挑んだが落選した。張勉に引き立てられて民主党のスポークスマンを務め、李承晩大統領の政策に反対して活動したものの、1959年と1960年にも落選が続いた。1961年5月14日の再補欠選挙でようやく当選したが、2日後に朴正煕の軍事クーデターが起き、国会が解散されて失職した。
1963年に木浦市選挙区から当選し、1964年には金俊淵の拘束同意案の可決を阻止するため、国会で5時間19分のフィリバスターを行った。金泳三とともに野党の代表的な政治家として頭角を現し、1967年の選挙では朴正煕大統領みずからが応援に乗り込む与党候補との接戦を制した。1970年9月に新民党の大統領候補に指名され、1971年4月の大統領選では現職の朴正煕に97万票差まで迫ったが敗れた。投票前の5月には、遊説中に交通事故を装った暗殺工作に遭い、股関節に障害を負った。
1972年10月に朴正煕が非常戒厳令を布告すると、日本滞在中だった金大中は亡命生活を選び、米国と日本を行き来した。1973年8月8日、東京のホテルで韓国中央情報部に拉致されて船で連れ去られ、8月13日にソウルの自宅前で解放されたが、その後は自宅軟禁に置かれた。1976年3月に「民主救国宣言」を発表して逮捕され、1978年3月に釈放された。1979年に朴正煕が暗殺されると民主化の機運が高まったが、1980年5月18日に再び逮捕され、これを引き金に光州で民主化要求のデモが武力で鎮圧される惨事が起きた。金大中は軍法会議で首謀者とされ、9月17日に死刑判決を受けた。国際的な批判が強まって1982年1月に無期懲役へ減刑され、同年12月に刑の執行を停止されて米国に出国した。
1985年2月に帰国を強行し、1987年の民主化宣言を経て政治犯として赦免・復権した。同年12月の大統領選では平和民主党を結成して軍人出身の盧泰愚に挑んだが、金泳三と分立して文民勢力が割れ、敗北した。1992年にも敗れて政界引退を表明したが、1995年に新政治国民会議を結成して復帰した。1997年の大統領選では保守派の金鍾泌と手を結び、「準備された大統領」を掲げてアジア通貨危機への対応力を訴え、当選した。
大統領としてはIMFの介入を受け入れて経済改革に着手し、IT産業の奨励などで危機からの立て直しを図った一方、急激な転換は貧富の格差を広げたため福祉の拡充にも力を入れた。1998年10月には小渕恵三首相と日韓共同宣言を発表し、日本文化の開放を進めた。北朝鮮には「太陽政策」と呼ばれる緊張緩和策をとり、2000年6月に平壌で金正日国防委員長との南北首脳会談を実現して6.15南北共同宣言を結び、ノーベル平和賞を受けた。韓国人初の受賞者だったが、太陽政策には批判もある。任期末には3人の息子の不正蓄財が発覚し、国民に謝罪した。2003年2月に退任し、2009年8月18日、ソウルの病院で多臓器不全のため83歳で死去し、韓国史上2人目の国葬に付された。
同じ年に亡くなった人物
- ジェイムズ・パーディ (2009年没)
- アレクシス・アルゲリョ (2009年没)
- Viking Palm (2009年没)
- 銭学森 (2009年没)
- ロジェ・プランション (2009年没)