伝記
エドワード・ムーア・ケネディは、1932年2月22日に実業家ジョセフ・P・ケネディ・シニアとローズ夫妻の九番目の子、末っ子として生まれた。男兄弟では四男にあたり、のちに大統領となるジョン・F・ケネディと、司法長官や上院議員を務めたロバート・F・ケネディを兄に持つ。公式文書には「テッド」の短縮形で署名し、一般にもテッド・ケネディの名で知られた。幼い頃は父の仕事の都合でアメリカやヨーロッパ各地を転々とし、転校を繰り返した。末っ子として可愛がられた一方、上の兄たちと比べられもした。ボストンのミルトンアカデミーでは成績は平凡だったが、フットボールを得意とし、演劇やグリークラブなどにも取り組んだ。1950年秋にハーバード大学に入学した。
1951年4月から二年間アメリカ陸軍に従軍した。父が各方面に手を回したおかげで朝鮮戦争には赴かず、憲兵としてパリの欧州連合軍最高司令部に勤務し、上等兵として名誉除隊し、1953年の夏に復学して1956年に卒業した。その後はバージニア大学ロースクールに進み、学内の模擬裁判では一位の成績を収めたが、無謀運転と無免許運転で逮捕されたこともあった。1958年には、兄ジョンの上院議員再選運動の責任者に指名された。
1962年11月7日、民主党からマサチューセッツ州選出の連邦上院議員に当選し、翌1963年から2009年に死去するまで務めた。当初は年功を積んだ南部の議員たちに敬意を示して宣伝を避け、委員会の仕事と地元の問題に力を注いだ。上院では民主党院内幹事、司法委員長、労働委員長、厚生・教育・労働・年金委員長などを歴任している。1963年11月22日に兄ジョンが暗殺されたとき、上院本会議の議長席にいて、議会スタッフから通信社の至急電を渡されて知らされた。その後、姉のユーニスとともに、脳卒中で療養中の父に報せるためハイアニスポートへ向かった。1968年6月、ロバートがカリフォルニアの予備選挙に勝った夜はサンフランシスコにいたが、ロバートはロサンゼルスで狙撃されて翌日に死亡し、葬儀ではテッドが弔辞を読んだ。兄たちの死後は13人の甥と姪の親代わりとなり、義姉ジャクリーンがオナシスと再婚する際には交渉役も務めた。
1969年7月28日、パーティーのあとに自ら運転する車が桟橋から海に転落し、同乗していたロバートの元選挙スタッフが死亡した。ケネディは警察に通報せず現場を離れたとされ、この「チャパキディック事件」は大きなスキャンダルとなった。実刑は免れたものの、有力視されていた1972年の大統領選への出馬を断念することになり、1980年の選挙でも民主党の指名を逃す一因になったとされる。大統領への道は絶たれたが、上院では300以上の法案を起草して成立させ、移民および国籍法、アメリカ障害者法、市民権法、子供を置き去りにしない法などに関わった。経済的・社会的正義を重んじる自他ともに認めるリベラル派でありながら、共和党とも協力して妥協点を探ることで知られた。
2008年1月、ジョン・ケリー上院議員に続いて民主党のバラク・オバマ候補の支持を表明した。同年5月に入院して悪性脳腫瘍と診断され、腫瘍の摘出には成功し、8月の党大会ではオバマへの支持を訴えた。2009年1月のオバマ大統領就任式では発作を起こして病院に運ばれたが、翌日には退院した。同年8月25日、脳腫瘍のため77歳で死去した。葬儀は8月29日にボストンの教会で営まれ、遺体はアーリントン国立墓地の兄たちの墓の傍らに埋葬された。2011年にはマサチューセッツ大学ボストン校内に研究所が開設された。
同じ年に亡くなった人物
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- サマック・スントラウェート (2009年没)
- Muhsin Yazicioglu (2009年没)
- ブリタニー・マーフィ (2009年没)
- チャン・ジャヨン (2009年没)
同じ地域に関係する人物
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- エラリー・クラーク (1949年没)
- ハリエット・クインビー (1912年没)
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