伝記
マイケル・ジャクソンは、1958年8月29日にアメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーの貧しいアフリカ系の家庭に、父ジョセフと母キャサリンの五男として生まれた歌手、ダンサーである。父はクレーン操縦士で、母は百貨店のパートタイム従業員として家計を支えた。ジョセフ自身も、弟が始めたバンドに加わって音楽活動をしており、音楽家として成功する夢を抱いていた。兄のジャッキー、ティト、ジャーメインが父のギターをこっそり弾いていたとき、ティトが弦を切ってしまい、叱られそうになりながら「僕にだって弾ける」と必死に演奏してみせた。その腕前に気づいたジョセフが子どもたちに音楽を教える決意をした、という逸話が伝わる。
1963年、母が「この子は歌えるのよ」と父に助言したことをきっかけに、マイケルも兄弟のグループに加わり、グループはジャクソン5と名乗るようになった。1967年にはニューヨークのアポロ・シアターに進出し、ジェームス・ブラウンやジャッキー・ウィルソンのステージを見て学んだ。1968年にスティールタウン・レコードから「ビッグ・ボーイ」でデビューし、前座で出会ったボビー・テイラーの働きかけで、同年7月にモータウンと契約した。1969年10月のメジャーデビュー曲「帰ってほしいの」が全米1位となり、続く「ABC」「小さな経験」「アイル・ビー・ゼア」も1位を獲得して、デビューから4曲連続の全米1位という記録を残した。1971年の「ガット・トゥ・ビー・ゼア」でソロデビューし、1972年の「ベン」で初のソロ全米1位を得たが、アイドル路線を続けさせるモータウンへの不満は強まり、1975年にエピック・レコードへ移った。グループ名は使えなくなり、以後はジャクソンズを名乗った。
1978年のミュージカル映画『ウィズ』でダイアナ・ロスと共演した際、のちに共同プロデューサーとなるクインシー・ジョーンズと出会った。1979年、クインシーを迎えて発表した『オフ・ザ・ウォール』は全米で1000万枚を売り、ソロとして初のグラミー賞をもたらした。1982年12月の『スリラー』は推定7,000万枚以上を売り上げ、ギネス世界記録で史上最も売れたアルバムとされる。収録9曲のうち7曲がシングルになり、すべて全米トップ10に入った。第26回グラミー賞では史上最多の8部門を受けた。「ビリー・ジーン」のミュージックビデオは、黒人音楽家の作品を流さないとされた当時のMTVの慣行を破って放映され、「スリラー」は14分のホラー映画風のショートフィルムとして制作された。1983年5月のモータウン25周年記念コンサートでは、ソロで「ビリー・ジーン」を歌い、のちに代名詞となるムーンウォークを初めて披露した。
しかし1984年1月、ペプシの広告撮影中の事故で頭部に火傷を負い、これを機に鎮痛剤への依存が始まった。長年の不眠や精神的な苦悩から睡眠薬などにも頼るようになったという。同年末にはヴィクトリー・ツアーを終えてジャクソンズを脱退し、1985年にはアフリカ飢餓救済の企画「USAフォー・アフリカ」に参加した。90年代以降も『デンジャラス』『ヒストリー』を発表し、世界各地でツアーを行った。2009年、復帰の舞台となるはずだったツアー「ディス・イズ・イット」の開催を発表したが、公演開始の約1か月前の6月25日、急性プロポフォール中毒により50歳で世を去った。39の慈善団体を支援し、ヒール・ザ・ワールド基金を設立するなど社会活動にも熱心で、その生涯を描いた伝記映画『マイケル』は2026年に公開された。
同じ年に亡くなった人物
- ドム・デルイーズ (2009年没)
- ラルフ・ダーレンドルフ (2009年没)
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- インゲル・クリステンセン (2009年没)
同じ地域に関係する人物
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- トム・ウィルソン (音楽プロデューサー) (1978年没)
- ウォード・キンボール (2002年没)
- スティーヴ・アレン (2000年没)
- メアリー・ブレア (1978年没)