伝記
ジェニファー・ジョーンズは、1919年3月2日にアメリカ合衆国オクラホマ州タルサで、フィリス・リー・イスリーとして生まれた女優である。両親のフィリップとフローラは、中西部を天幕の巡業劇団で回っており、一人娘の彼女も同行して、イスリー・ストック・カンパニーの舞台に立つことがあった。父は1930年代までにテキサスで映画館の経営も手がけ、その存在が若い彼女の演技の道に影響したとされる。タルサのカトリック系の女学校を出たのち、イリノイ州のノースウェスタン大学で演劇を専攻し、1937年9月にニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツへ移った。そこで同じ俳優志望のロバート・ウォーカーと知り合って学校をやめ、1939年1月2日に結婚した。
1939年、本名のフィリス・イスリー名義で共和国映画の西部劇『ニュー・フロンティア』と連続活劇『ディック・トレイシー』に出たが、印象を残せず、契約は更新されなかった。パラマウントのスクリーンテストにも落ち、ハリウッドに幻滅してニューヨークへ戻った。夫がラジオで仕事を得る一方、帽子のモデルや雑誌の写真撮影で生計を補いながら、1940年と1941年に二人の息子をもうけた。1941年夏、舞台劇『クローディア』の主役のオーディションでデヴィッド・O・セルズニックの事務所を訪れた際には、出来が悪かったと思い込んで泣いて立ち去ったが、読みを耳にしたセルズニックが評価して呼び戻し、7年契約を結んだ。名前をジェニファー・ジョーンズと改められたのはこのときである。
1943年、ヘンリー・キング監督がスクリーンテストで選んだ『聖処女』で、聖ベルナデットを演じて主演を務めた。三作目の出演だったこの作品で、翌年の25歳の誕生日にアカデミー主演女優賞を受けた。この頃セルズニックとの関係が始まり、1943年11月にウォーカーと別居し、『君去りし後』(1944年)で共演したのち、1945年6月に正式に離婚した。『君去りし後』『ラヴ・レターズ』『白昼の決闘』と、1940年代半ばに次々とアカデミー賞にノミネートされた。1949年にセルズニックと再婚し、同年のヴィンセント・ミネリ監督作『ボヴァリー夫人』でタイトルロールを演じた。1950年代には『ルビー・ジェントリー』、ジョン・ヒューストンの冒険喜劇『悪魔をやっつけろ』、ヴィットリオ・デ・シーカの『終着駅』などに出演し、1955年の『慕情』で、ユーラシア系の女医を演じて5度目のノミネートを受けた。同年1月30日には、香港ロケへ向かう途中、共演のウィリアム・ホールデンと来日している。
1965年にセルズニックが亡くなると、実業家のノートン・サイモンと結婚し、ほぼ引退状態となった。1974年の『タワーリング・インフェルノ』が最後の映画出演で、ホールデンと久しぶりに共演し、ゴールデングローブ賞助演女優賞の候補になった。1976年には、セルズニックとの間の娘メアリー・ジェニファーが22歳で自ら命を絶つ悲劇があり、これを機に精神保健の教育に深く関わるようになって、1980年にジェニファー・ジョーンズ・サイモン財団を設立した。1998年と2003年のアカデミー賞授賞式には姿を見せている。晩年の6年間はカリフォルニア州マリブで暮らし、2009年12月17日、老衰のため90歳で亡くなった。息子のロバート・ウォーカー・ジュニアとマイケル・ウォーカーも俳優となった。
同じ年に亡くなった人物
- Guy Guillabert (2009年没)
- スリム・ヤマダエフ (2009年没)
- エリオ・グレイシー (2009年没)
- サハン・ドソヴァ (2009年没)
- アブドゥルアズィーズ・ハキーム (2009年没)
同じ地域に関係する人物
- エドワード・プラット (1974年没)
- ヴィクター・ブオノ (1982年没)
- フローレンス・アルト (1977年没)
- キャプテン・ビーフハート (2010年没)
- アレクサンダー・シュルギン (2014年没)