伝記
クロード・レヴィ=ストロースは、1908年11月28日に、両親が一時的に滞在していたベルギーのブリュッセルで生まれ、パリで育ったフランスの社会人類学者、民族学者である。両親はアルザス出身のユダヤ人の家系で、いとこ同士だった。曽祖父は作曲家のイザーク・シュトラウスで、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世と同姓だったため、パリで人気があったという。父は画家で、交友関係も芸術を通じたものが多く、幼いころから芸術に親しむ環境で育った。浮世絵など日本の文物にも接し、日本の美術工芸への関心を持ち続けた。
両親の友人らを通じて早くからマルクス主義に触れ、高校から大学にかけては社会主義運動に参加して、学生組織の書記長を務めた。ソルボンヌ大学で法学の学士号を取る傍ら、哲学を学び、哲学教授資格試験に合格した。教育実習の同期には、モーリス・メルロー=ポンティやシモーヌ・ド・ボーヴォワールがいた。二つのリセで哲学教師を経験したのち、教師の生活に飽きたらず、社会学者セレスタン・ブーグレから新設のブラジルのサンパウロ大学の社会学教授への赴任を打診され、民族学の野外調査に期待して、ブラジルへ渡った。
サンパウロでは、新興の中産階級の学生に社会学を講じ、妻ディナとともに、サンパウロ州の郊外を中心に民族学の調査に取り組んだ。大学の休暇を利用して、パラグアイとの国境地帯や、内陸のマトグロッソ地方で調査を行い、結果はマルセル・モースらの後援でパリの人類博物館で発表された。大学の任期延長を断り、1936年からほぼ一年間を、ブラジルの内陸部を横断する長期調査に費やし、アマゾン川の支流に暮らすいくつかの民族と接触した。これらの体験は、のちの著書『悲しき熱帯』(1955年)に印象的に回想されている。
第二次世界大戦の前夜に帰国して応召し、西部戦線に従軍した。敗戦で兵役を解かれると、ナチスのユダヤ人迫害を逃れてマルセイユから船でアメリカへ亡命した。同じ船にはシュルレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンも乗っていた。ニューヨークでは、ブルトンやマックス・エルンストらとアメリカ先住民の美術工芸品を熱心に集め、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチで文化人類学を講じた。ここで言語学者ロマン・ヤコブソンと知り合い、構造言語学の音韻論の発想を学んで、親族構造論の骨格に活用することを思いついた。終戦後も2年ほど米国にとどまって、博士論文となる大著『親族の基本構造』を書き上げ、1949年に論文審査を通って公刊された。女性の交換が親族構造の根本的な機能だと提起した著作である。
神話学者ジョルジュ・デュメジルの紹介で高等研究実習院に職を得て、1950年代にはモースの著作集の序文を書き、1951年と1952年にはコレージュ・ド・フランスの教授選に落選した。ユネスコのための小冊子『人種と歴史』(1952年)や論文集『構造人類学』(1958年)を著し、『悲しき熱帯』で一躍世間に知られるようになった。3度目の立候補で、メルロー=ポンティやデュメジルらの後押しを受け、1959年にコレージュ・ド・フランスの新設の社会人類学講座の教授に選ばれ、人類学の講座が置かれたのはこれが最初だった。1962年には『今日のトーテミスム』と『野生の思考』を発表し、未開社会の分類に合理性を見いだして、西洋中心の見方に一石を投じた。1984年まで同講座を担当し、構造主義の祖とされる。アカデミー・フランセーズの会員で、2009年10月30日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- バッド・シュールバーグ (2009年没)
- Guy Guillabert (2009年没)
- Hanne Darboven (2009年没)
- Andy Hallett (2009年没)
- ステファノス・ガッタス2世 (2009年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・ドラローシュ (1856年没)
- アントニーン・レイハ (1836年没)
- Salomon de Brosse (1626年没)
- アウグステ・フォン・バーデン=バーデン (1726年没)
- ジュセッペ・オキャリーニ (1993年没)