伝記
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインは、1583年9月24日、ボヘミアのヘルマニツェで生まれた。もとの姓はヴァルトシュタインである。父はヴィレム4世、母はマルケータで、貧しいプロテスタントの小貴族の家に生まれた。両親はルター派とウトラキスト派で、両親の死後、彼は母方の叔父ヘンリフ・スラヴァタのもとで2年暮らし、その所属するボヘミア兄弟団に加わった。1597年にシュレージエンのラテン語学校へ送られ、1599年にはニュルンベルク近郊のアルトドルフ大学に入ったが、乱闘や決闘沙汰を繰り返して町の牢に入れられ、1600年に去った。その後、神聖ローマ帝国やフランス、イタリアを巡り、ボローニャ大学やパドヴァ大学で学んだ。ドイツ語、チェコ語、ラテン語、イタリア語に通じるようになり、スペイン語も理解した。やがて皇帝ルドルフ2世の軍に加わってハンガリーで長期トルコ戦争を戦い、1606年頃にカトリックに改宗した。1609年には裕福な未亡人と結婚し、1614年に彼女が亡くなるとその遺産を受け継ぎ、それを元手に金融業や領地の殖産興業で資産を増やした。
1618年にボヘミアのプロテスタントが反乱を起こしてプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を王に選ぶと、反乱政府の金庫を奪って抵抗し、皇帝フェルディナント2世に味方して鎮圧に貢献した。1620年には没収されたプロテスタントの領土の売買に加わって土地を買い集め、ボヘミア有数の大貴族となった。皇帝に軍資金を融資し、私兵も提供した。1625年に自前の軍勢の徴募を申し出て許され、皇帝軍総司令官に任命された。北ドイツに出兵し、ティリー伯と合流して、デンマーク王クリスチャン4世らプロテスタント諸侯の討伐にかかった。マンスフェルトの襲撃を退け、ティリーもクリスチャン4世に勝ったため、プロテスタント軍は掃討され、メクレンブルクとユトランド半島に進出した。1628年にはメクレンブルク公に叙され、帝国大元帥、バルト海提督、フリートラント公となった。
だが占領地から取り立てる軍税は批判され、ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムらの不満を買った。ボヘミアの小貴族から一気に諸侯へ成り上がったことも、旧来の諸侯の反感を招いた。1628年にシュトラールズントの包囲に失敗し、1629年のリューベックの和約でデンマークをドイツから締め出したが、同年の復旧令をめぐって諸侯の反対が高まり、1630年に総司令官を罷免された。スウェーデン王グスタフ2世アドルフが北ドイツに上陸し、ティリーが敗れて戦死すると、皇帝の懇願で復職した。ボヘミアを占領していたザクセン軍を撤退させ、グスタフ2世を北へ後退させたが、1632年のリュッツェンの戦いではグスタフ2世を戦死させながら皇帝軍は敗走した。その後、独自に講和を結ぼうとして反逆の疑いをかけられた。1634年2月、エーガーの居城で皇帝軍のスコットランド人とアイルランド人の将校らによって暗殺された。50歳であった。
彼は占領地に略奪を免除する代わりに税を取り立て、傭兵の報酬に充てる軍税で収入を得た。これは常備軍への道につながったといわれる。最盛期には12万5000もの大軍勢を率いた。ドイツの作家シラーは、その生涯を戯曲に書いている。
同じ年に亡くなった人物
- アントニオ・デ・アンドラデ (1634年没)
- Thomas Button (1634年没)
- ヴェンツェル・コーベルヘル (1634年没)
- エドワード・コーク (1634年没)
- ユルバン・グランディエ (1634年没)
同じ地域に関係する人物
- フランツ・クサーヴァー・モーツァルト (1844年没)
- エドヴィン・フォン・マントイフェル (1885年没)
- ドロテア・ゾフィー・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク (1689年没)
- アンソニー・ジョセフ・ドレクセル1世 (1893年没)
- インジヒ (1197年没)